ロシア文学(読み)ろしあぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロシア文学」の意味・わかりやすい解説

ロシア文学
ろしあぶんがく

11世紀から現代までのほぼ1000年にわたるロシアの文学の歴史は、18世紀初頭のピョートル1世の改革を境に、中世(ロシアでは伝統的に古代とよぶ)と近代に大別される。また、ソビエト政権樹立(1917)後の文学をソビエト文学とよんで、革命前のロシア文学と区別することも行われてきた。しかし、1991年のソ連邦崩壊以後は、社会主義的価値観の喪失による混沌(こんとん)とした世相の「ポスト・ソビエト時代」に入り、文学界もポスト・モダンの傾向が台頭している。

[江川 卓・木村彰一]

ロシア文学の歩み

古代

ロシア文学は、10世紀末、キエフ大公国がギリシア正教を国教と定めたのと前後して、主としてブルガリアから、いわゆる教会スラブ語で書かれたビザンティンの宗教文献の翻訳がもたらされたときに、その成立の可能性を与えられた。教会スラブ語は、当時のロシア語にきわめて近いマケドニアの土語を基礎とする文語で、ロシアに入ってからは世俗的な目的にも用いられ、17世紀までロシア語そのものより優勢であった。

 現存する最古の文献である『オストロミール福音(ふくいん)書』の書かれた11世紀中ごろから17世紀末までの約650年間を、一般にロシア文学史では「古代」と名づける。この時期の作品は、概して宗教的ないし教訓的色彩の強いもの、あるいは、なんらかの実用的な目的に奉仕する「社会・政治評論的」傾向のものが大部分を占めている。ただし文字による文学のほかに、純粋に世俗的で芸術的にも優れた口碑文学のジャンルがすでに11世紀以前から豊富に存在していたことは明らかで、「古代」ロシア人の美的欲求は主としてこの口碑によって満たされていたものと思われる。これらのフォークロア作品には、おとぎ話、説話などの散文のジャンルのほかに、儀礼歌、叙情歌などの詩的ジャンルに属するものも豊かで、とくに「ブイリーナ」とよばれる古代英雄叙事詩は芸術的価値も高く、イリヤ・ムーロメッツ、ドブルイニャ・ニキーチチ、ミクーラらの巨人騎士を主人公に、半神話的、半歴史的なロシア人の過去を歌っている。

[江川 卓・木村彰一]

キエフ時代

「キエフ時代」(11~13世紀)は、『ボリスとグレープ伝』『ペチョラのフェオドーシイ伝』などの聖者伝やウラジーミル・モノマフ公の『教訓』を代表とする説教のような純粋に教会的ジャンルの作品のほかに、きわめて独創的な二つの作品、『ロシア年代記』(12世紀初め)と『イーゴリ遠征物語』(1185~1187)とを生んだ。前者はキエフ(現、キーウ)の修道院でつくられたもので、古い口碑を取り入れた部分に高い文学的価値があり、後者(作者不詳)は高度に複雑な文体的技巧を自在に駆使した純世俗的作品で、古代文学の最高位を占める傑作である。ほかに『聖母の責苦めぐり』『地獄にあるアダムよりラザロへの言葉』など、ビザンティン起源の聖書偽典も翻訳の域を越えてロシア文学の源流となった。

 こうした水準の高い作品を生み出したキエフ文学の伝統は、13世紀から15世紀末に至るタタールの支配の時代に絶えてしまい、14世紀末からは修辞的技巧だけを極度に重視する内容空疎な聖者伝が主流を占めるようになり、この傾向は次のモスクワ時代(16~17世紀)にも引き継がれる。これと並んでモスクワ国家内部の激しい宗教的、政治的対立を反映する「社会・政治評論的」作品が16世紀の特徴をなす文学現象である。そのなかで16世紀初めのノブゴロドの商人層の考え方を反映した『ドモストロイ』(家庭訓)が独自の価値をもつ。

 17世紀に入ると、世紀の初めの「動乱期」によって古いモスクワ的国家機構が根底から揺るがされた結果、文学のなかに新しい要素が現れ始める。たとえば、この世紀後半の「世俗物語」とよばれるジャンルの作品には、宗教的色彩は希薄ないし皆無で、日常的生活情景が描かれ、そのあるものには口碑的要素の浸透が著しく、ときには当時の社会に対する風刺も見られる。また分離派教徒の指導者アバクームは、注目すべき『自伝』(1672~1675)で、自らの生涯を聖者伝の伝統的形式を打破し、しかも生きた口語を用いて赤裸々に描き、宮廷詩人シメオン・ポーロツキーSimeon Polotskii(1629―1680)は、ポーランドないし西欧の影響のもとに、従来みられなかったジャンルである詩や劇の面で数多くの作品を書いた。

[江川 卓・木村彰一]

18世紀

17世紀に始まるロシア社会の世俗化、西欧化、近代化の過程は、ピョートル1世の果断な改革によって急激に促進されたが、それに伴って文学の領域でも古代の文学伝統はほぼ断絶し、西欧の思潮が次々に紹介されて、その影響のもとに純粋に世俗的な近代ロシア文学の伝統がしだいに築き上げられていく。ただしピョートル時代はいわば17世紀の継続で、真の意味の「近代」は1730~1740年代における古典主義の登場とともに開始されるとみるべきである。

 古典主義は主としてフランス、一部はドイツの古典主義の影響によって成立したもので、1760年代まで続いたその最盛期には、西欧の模範に倣って悲劇、頌詩(しょうし)、書簡詩、風刺詩などのたぐいが盛んにつくられたが、自国の古代に題材を求めたこと、現実批判の傾向が強かったこと、要するにある程度リアリズムへの志向を示していたことはロシア古典主義の特色として注目に値しよう。代表的作家はカンテミール、トレジャコフスキー、ロモノーソフ、スマローコフの4人であるが、このうちロモノーソフは詩人ないし作詩法学者として優れていたばかりでなく、教会スラブ語とロシア語との区別を初めて明確にすることによって、ロシア文語の発達に極めて重要な貢献をもたらした。ロシア古典主義が最初から内包していたリアリズムの傾向は、プガチョフの乱(1773~1775)によって農奴制に基礎を置く専制政治の矛盾があらわになる1770年代から急に強くなり始める。

 劇作家フォンビージンや、18世紀最大の詩人デルジャービンの作品は、形式的には古典主義の枠内にとどまっているが、風刺的要素の導入や、人物の個性的な描写によって古典主義の抽象性や制約性をすでにある程度破っている。また、ノビコフは風刺的ジャーナリズムの諸作品で鋭い現実批判を試みた。1790年代に入ると、西欧市民社会のなかで発生した主情主義の影響が顕著になり始める。この傾向のロシアにおける代表者はカラムジンとラジーシチェフで、カラムジンは『哀れなリーザ』(1792)などの短編で主情主義のヒューマンな人間観を訴え『ロシア国史』でロシア人の民族意識の確立に寄与した。ラジーシチェフの『ペテルブルグからモスクワへの旅』(1790)は封建的人間関係や、農奴制に対する激しい抵抗の姿勢を示している。なお、カラムジンはフランス語法を取り入れた新しい文語を創造し、現代ロシア文章語の基礎を確立した。

[江川 卓・木村彰一]

19世紀初頭から革命まで

19世紀初頭の約30年間には、従来の古典主義、主情主義と並んで新たにロマン主義がおこり、さらに優れたリアリズムの作品も生まれている。ロマン主義には甘美なペシミズムや幻想の世界へのあこがれを歌ったV・A・ジュコフスキーらの「保守的」ロマン主義と、バイロン的な反逆の精神に貫かれたルイレーエフ、キュヘリベーケル、A・I・オドエフスキーらのデカブリスト詩人や初期プーシキンらにみられる「市民的」ロマン主義の二つの流れがみられる。またこの時期のリアリズムの代表者としては、平俗な用語でロシア人の国民的性格を浮き彫りにした寓話(ぐうわ)詩人クルイローフや、同時代人の種々なタイプをみごとに典型化した喜劇『知恵の悲しみ』(1824)の作者グリボエードフらがあげられる。こうしたさまざまな傾向や流派は、1820年代の初めから創作活動を開始した大詩人プーシキンの天才によって、やがてみごとな調和のなかに溶かし込まれ、いわゆる批判的リアリズムの高次の総合に生かされることになる。この総合のうえにたちつつ、韻文小説『エウゲーニー・オネーギン』(1825~1832)、劇詩『ボリス・ゴドゥノフ』(1825)、叙事詩『青銅の騎士』(1833)、散文作品『ベールキン物語』(1830)、『スペードの女王』(1834)、『大尉の娘』(1836)、小悲劇『モーツァルトとサリエリ』『石の客』(ともに1830)など多彩な作品で前人未到の領域を開拓したプーシキンの偉業を待って、ロシア文学は初めてロシア的現実とロシア的典型の独自な表現としての国民文学となった。プーシキンが、その比類ない数多くの叙情詩、叙事詩によって美しく豊かな近代ロシア語を完成させた功績も忘れられない。

 プーシキンが1830年代以後初めて開拓した散文の領域では、レールモントフおよびゴーゴリがそのリアリズムを継承。とくにゴーゴリの長編『死せる魂』第一部(1842)、中編『外套(がいとう)』(1842)、レールモントフの『現代の英雄』(1840)はリアリズム小説の直接の源泉となった。レールモントフについては、デカブリスト敗北後の反動的社会状況と相いれなかった彼の立場を反映して、アポロン的なプーシキンに対してロシア文学のディオニソス的伝統の源流をなし、またその詩の独自な音楽性がチュッチェフ、フェート、マイコフらを経て19世紀末の象徴派詩人に至るロシア詩の「純粋芸術」派的潮流に大きな影響を与えたことが見逃せない。ゴーゴリについては、『恐ろしき復讐(ふくしゅう)』(1831)、『ビイ』(1835)などの初期怪奇ものの系列、『狂人日記』(1835)、『鼻』(1836)などの幻想的作品が、リアリズムを超えた文学の可能性を示唆し、世紀末および20世紀文学に直接的な影響を与えたことがあげられる。1830~1840年代にはまた『ロシアの夜』(1844)のA・I・オドエフスキー、農民風詩人コリツォフ、独自の哲学的叙情詩で知られるチュッチェフらが輩出した。

 普通「批判的リアリズム」の名でよばれるロシア・リアリズムは、1840年代に競って文壇に出た小説家ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ドストエフスキー(やや遅れてトルストイ)らによって打ち立てられたもので、小説の断然たる優位、社会問題に対する関心、社会の下層に対するヒューマンな同情などを主要な特徴とする。現実の広範かつ忠実な描出とその批判とを文学の本道とした批評家ベリンスキーは、こうした特色をもつリアリズムの成立に多大の影響を及ぼした。彼とともに「革命的民主主義」の先駆的思想家として活動したのがゲルツェンである。また1830~1850年代には、ロシアの民族的独自性を重くみて、ピョートル1世の改革さえも否定するホミャコーフ、K・S・アクサーコフらの「スラブ派」(スラボフィル)と、ロシアの西欧化の促進を主張するチャアダーエフらの「西欧派」(ザーパドニキ)の間に、当時の知識人を二分する大論争が起こった。

 1840年代から1870年代にわたる約30年間はリアリズム長編小説の黄金時代で、20世紀世界文学に深刻な影響を与えたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)『カラマーゾフの兄弟』(1879~1880)や、リアリズムの一極限を示すトルストイの『戦争と平和』(1863~1869)『アンナ・カレーニナ』(1873~1877)は、すべてこの時期に書かれた。この2人の巨匠によって世界の近代文学はその頂点を極めた観があり、ドストエフスキーの作品はしばしば「現代の予言書」とよばれ、トルストイの作品は方法的にその後の世界文学に計り知れぬ影響を及ぼした。『猟人日記』(1847~1852)で出発したツルゲーネフが『ルージン』(1856)、『その前夜』(1860)、『父と子』(1862)と社会的問題作を次々と発表、ゴンチャロフが『オブローモフ』(1859)で「余計者」の典型を描き出したのもこのころである。また『デカブリストの妻』(1871~1872)、『ロシアは誰(だれ)に住みよいか』(1866~1876)などの長編叙事詩のほか、幾多の叙情詩、叙事詩で市民的精神を鼓吹した詩人N・A・ネクラーソフ、『雷雨』(1859)、『森林』(1871)などでロシアの国民演劇を確立したA・N・オストロフスキーの活躍も特記される。1870年代には『ある町の歴史』(1869~1870)、『ゴロブリョフ家の人々』(1876~1880)で風刺文学に新境地を開いたサルティコフ・シチェドリン、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1865)、『僧院の人々』(1872)などでストーリーテラーとしての才能を発揮したレスコーフら、異色の作家も出ている。批評の領域では、1860年代には革命的民主主義者チェルヌィシェフスキー、ドブロリューボフが、1870年代には人民主義者N・K・ミハイロフスキー、ピーサレフが出て、ベリンスキーの社会学的批評を発展させ、革命以後も受け継がれた文学批評の傾向と調子を決定した。

 長編の全盛時代は1870年代に終わりを告げ、1880年代はガルシン、コロレンコ、チェーホフらに代表される短編の時代である。人民主義運動挫折(ざせつ)の後を受けた「たそがれの時代」の、絶望と懐疑とよりよき未来へのあこがれが彼らの作品に通ずる特徴である。とくにチェーホフは初期のユーモア短編の時代から散文の名手として知られ、『六号室』(1892)、『イオーヌイチ』(1898)、『犬を連れた奥さん』(1899)などの中編では、社会性と芸術性を兼ね備えた独自の文学を創造した。彼は『かもめ』(1896初演)、『三人姉妹』(1901初演)、『桜の園』(1904初演)など、「気分劇」の創始者としても知られ、世界の劇壇に革命的な影響を与えた。

 1890年代に入ると文壇はふたたび活気を取り戻す。この時期から20世紀初頭にかけては、リアリストとシンボリストの対立が特徴的である。前者はチェーホフを最後の代表者とする批判的リアリズムの伝統をさらに革命の道に沿って発展させ、『チェルカッシ』(1895)をはじめとするロマン主義的な初期短編、戯曲『どん底』(1902)、長編『母』(1907)、『ざんげ』(1908)、自伝三部作などで新文学の旗手として登場したゴーリキーや、現実に対する関心を多少とも作品に反映させようとした「自然主義者」クプリーンやI・A・ブーニンらであり、後者は文学の社会性を拒否して美や自我の崇拝を唱えたメレシコフスキー、バリモント、ソログープ、レーミゾフ、さらに20世紀に入ってからのブローク、ベールイらである。シンボリズムは1905年以後、約10年にわたって文壇、詩壇の主流をなしたが、この時期にも、たとえばブロークらにはロシアの現実を直視しようとする姿勢がみられる。

 1910年代になると、シンボリストの陣営からシンボリズムのもつ過度の観念性に反抗する「アクメイズム」と「未来主義」の二つの流派が現れた。神秘的世界の探究をやめて可視の世界を具象的言語によって描こうとする前者にはグミリョフ、アフマートワ、マンデリシュタームが、詩芸術の極端な無目的性を標榜(ひょうぼう)する後者にはフレーブニコフ、後の革命詩人マヤコフスキーらが属した。

[江川 卓・木村彰一]

ソビエト文学の歩み


 1917年の十月革命とそれに続く国内戦の時期に旧文学者のかなりの部分は海外に亡命し、国内にとどまった者も革命に対する態度の決定を迫られ、ソビエト文学は最初からある種の政治的価値判断を含んだ文学として出発した。作家をその出身によってプロレタリア作家、農民作家、旧知識人系の「同伴者作家」等々と区別する習慣も1930年代初めまで続く。またソビエト文学という呼称は、ロシア、ウクライナ、ジョージア(グルジア)など、本来は、ソ連諸民族の多言語文学を一括してとらえようとした概念で、この点にも特殊性がみられる。

[江川 卓]

革命直後

革命直後はいわば詩の時代で、ブロークの長詩『十二』(1918)がソビエト詩の最初の傑作となり、十月革命を「私の革命」として受け入れたマヤコフスキー、扇動詩のベードヌイ、世界革命をロマンティックに歌い上げた「プロレトクリト」「鍛冶屋(クーズニツァ)」系の詩人たちの活躍が目だった。ネップ(1920年代に実施された新経済政策)の時代に入ると、ようやく散文が文学の主流を占め始め、『鉄の流れ』(1924)のセラフィモービチ、『チャパーエフ』(1923)のフールマノフ、『一週間』(1922)のリベジンスキー、『壊滅』(1927)のファデーエフらのプロレタリア文学系作家と、『裸の年』(1921)、『消されない月の話』(1926)のピリニャーク、『装甲列車14-69号』(1922)のV・V・イワーノフ、『騎兵隊』(1926)のバーベリらの同伴者系作家とが、国内戦や革命後の困難な現実に題材をとって、それぞれに作品を競い合う状況が生まれた。ほかに『シネブリューホフ物語』(1922)以後、数々の短編で革命後のソ連の現実を滑稽(こっけい)に風刺したゾシチェンコ、『十二の椅子(いす)』(1928)、『黄金の子牛』(1931)で痛快な風刺画廊をつくりあげたイリフ・ペトロフらの風刺作家、旧知識人系のベールイ、『われら』(1924)で共産主義社会のアンチ・ユートピア像を提出して、オーウェル、オルダス・ハクスリーらに影響を与えたザミャーチン、『悪魔物語』(1924)、『運命の卵』(1924)などで独自の作風を示し、のちに傑作『巨匠とマルガリータ』(1967発表)を書くM・A・ブルガーコフ、『羨望(せんぼう)』(1927)のオレーシャ、『秘められた人間』(1928)、本国では断片的にしか発表されなかった『チェベングール』(1927~1929執筆、1972パリで刊行)のA・P・プラトーノフら、ユニークな作家たちも輩出し、1920年代文学は多彩な顔ぶれに支えられた。詩では、革命直後に劇詩『ミステリヤ・ブッフ』(1918)を発表、その後も長詩『ウラジーミル・イリイチ・レーニン』(1924)、『ハラショー(すばらしい)!』(1927)など精力的な活動を続けたマヤコフスキーと並んで、革命の哀傷を歌った美しい叙情詩人エセーニン、孤高の詩境を開いたパステルナークの名を忘れられない。

[江川 卓]

1920~1930年代

1920年代には文学団体も大幅に認められていて、政治主義的な「ナ・ポストウ」「ラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)」のほかに、非政治主義の「セラピオン兄弟」、未来派系の「レフ(芸術左翼戦線)」などが独自の文学的主張を掲げた。党も1925年の中央委決議では「文学における自由競争」の原則を打ち出している。この時期にはまた「オポヤーズ(詩的言語研究会)」を中心に「ロシア・フォルマリズム」とよばれる独自の文芸理論が確立されつつあった。シクロフスキー、エイヘンバウム、ティニャーノフらを中心にしたこの動きは、『ドストエフスキーの創作の諸問題』(1929)を出したバフチンらに受け継がれている。

 1930年前後になると、政治、社会情勢の影響もあって、社会主義建設をテーマにしたリアリズム的作品が優位を占めるようになり、その過程でカターエフ、エレンブルグ、フェージン、レオーノフらの同伴者作家と、ショーロホフ、ファデーエフ、N・A・オストロフスキーらのプロレタリア文学系作家との作風がしだいに接近する。この状況を踏まえて、1932年にはソビエト文壇を政治的にリードしていたラップをはじめ全文学団体が党の決議によって解散され、10年ぶりでイタリアから帰国したゴーリキーらの指導下に、1934年のソ連作家同盟設立、基本的創作方法としての「社会主義リアリズム」の承認へと文学界の再編成が進むことになる。この時期の作品としては、エレンブルグの『第二の日』(1934)、ショーロホフの『開かれた処女地』(第一部1932、第二部1960)、オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(第一部1932、第二部1934)、ゴーリキーの『クリム・サムギンの生涯』(1927~1936刊行)などがある。しかし1930年代後半に入ると、粛清の恐怖のもとで文学への露骨な政治的干渉が行われ、社会主義リアリズムもドグマと化して、創作活動も沈滞し、ショーロホフの『静かなドン』(1928~1940)、A・N・トルストイの『苦悩の中を行く』(1922~1941)の2大作の完成も文学の画一化を救えなかった。第二次世界大戦中、文学はいくぶん活気を取り戻し、祖国防衛を基調にシーモノフ、ワシレフスカヤ、トワルドフスキーらの新人が進出する。しかし終戦直後のいわゆる「ジダーノフ批判」(1946~1948、思想・文化担当書記局員ジダーノフによるイデオロギー引締め政策)は文学をふたたび政治統制の枠にはめ込み、ついには「無葛藤(むかっとう)理論」といった現実美化のえせ理論も生まれた。またスターリン賞の濫発によって文学の価値基準が混乱し、ババエフスキー、ブーベンノフなどの二流作家の作品が祭り上げられる一方で、カターエフ、V・S・グロスマンらの実力ある作家が激しい政治的非難を受けた。

[江川 卓]

「雪どけ」以降

スターリンの死(1953)のころからソビエト文学は「雪どけ」の時代に入る。このことばのもととなったエレンブルグの中編のほかに、オベーチキンらの農村ルポルタージュ、トワルドフスキーの長詩『遠いかなた』(1958~1960)、レオーノフの長編『ロシアの森』(1953)などが文学復興の先駆けをつとめた。パステルナークの長編『ドクトル・ジバゴ』(1957)へのノーベル賞授賞をめぐる動きにみられたように、政治情勢の変化で「雪どけ」は一進一退を繰り返したが、その間にもテンドリャコフ、V・P・ネクラーソフ、バクラーノフらの作家が育ち、1960年代にかけては詩のエフトゥシェンコ、A・A・ボズネセンスキー、散文のアクショーノフらの若手作家が大量に進出して、ソビエト文学にも疎外や世代断絶などの問題が提起された。そのなかでも『イワン・デニソビチの一日』(1962)で、スターリンの強制収容所の内幕を初めて白日のもとにさらし、しかも高度の芸術性を達成したソルジェニツィンの登場の意味は大きかった。しかしそのソルジェニツィンも、『マトリョーナの家』(1963)など二、三の短編を発表できただけで、国内では作品発表の道を閉ざされ、『ガン病棟』(1968)、『煉獄(れんごく)のなかで』(1968)の2長編は海外で刊行された。1973~1975年『収容所群島』をパリで発表、そのかどで1974年強制的に国外退去させられた。このソルジェニツィン追放を契機に、ソ連では反体制的文学者の大量出国の現象が起こる。すでに1972年には後のノーベル賞受賞詩人で、1964年にいわゆる「寄食者」裁判で裁かれたブロツキーが亡命し、1973年には国外で評論や小説をアブラム・テルツの筆名で発表した、文学「密輸」事件で1966年に強制労働7年の刑を受けたシニャフスキーが亡命していたが、1970年代後半にはV・P・ネクラーソフ、マクシーモフ、アクショーノフ、ウラジーモフ、ボイノービチ、ガーリチらが相次いで海外に亡命し、ソビエト国外に現代ロシア文学を考えねばならなくなった。

 この間の国内文学では、1974年に夭折(ようせつ)したシュクシンの存在が大きい。民衆の苦渋と断念を独特の「ことば」で表現した短編群は秀逸である。彼の後を受けて、アスターフィエフViktor Astafyev(1924―2001)、ベローフらのいわゆる「農村派」が進出し、『生きよ、そして記憶せよ』(1974)で土着に根ざした新しい文学を拓(ひら)いたV・G・ラスプーチンもこの系統に属する。ほかに歴史ものに新境地をみいだしたオクジャワ、『老人』(1978)、『ある時間、ある所』(1981)など都会ものの問題作を発表し続けたトリーフォノフらが注目された。1985年、ゴルバチョフ政権の登場とともに「ペレストロイカ」(建て直し)「グラスノスチ」(情報公開)の新時代に入り、ソビエト文学は新たな高揚を迎えた。パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』、A・P・プラトーノフの『土台穴』、ザミャーチンの『われら』など、多年禁書扱いになっていた作品が公表され、ルイバコフの『アルバート街の子供たち』(1987)、ビートフの『プーシキン館』(1987)など、長年発表できなかった作品も解禁された。ほかに、元亡命作家アルダーノフの長編『鍵(かぎ)』(1989)、『自殺』(1991)、それよりは一世代若いゴレンシュティンFriedrich Gorenstein(1932―2002)の『贖(あがな)い』(1990)、アンチキリストその人が登場する長編『聖詠』(1992)、いまや中堅作家となったウラジーモフの『忠犬ルスラン』(1989)、『将軍とその軍隊』(1994)、ジノビエフの『恍惚(こうこつ)の高み』(1976、スイス)、サーシャ・ソコロフSasha Sokolov(1943― )の『馬鹿たちの学校』(1989)などが発表された。この時期にはまた、多年アメリカに亡命していたソルジェニツィンが帰国して、『赤い車輪』などもロシア語で刊行された。同様に、アクショーノフも帰国して『クリミア島』『モスクワ伝説』などを発表した。民族文学も活況をみせ、とくにキルギスのアイトマートフの『一世紀より長い一日』(1980)、『処刑台』(1986)、ベラルーシのブイコフの『わざわいの兆(きざし)』(1985)などは長く残る作品だと思われる。

[江川 卓]

ポスト・ソビエト時代の文学状況

1991年にソ連邦が崩壊したのち、ロシアの政治・経済の混迷状況のなかで、文学もまた、一挙に混迷の時期に入った。それは、いままでの伝統的な「分厚い」文芸誌が、軒並み経営危機状態に陥ったことに如実に現れている。ちなみに、ソ連の代表的文芸誌であった『ノーブイ・ミール』は、1990年にソルジェニツィンの小説『煉獄(れんごく)にて』『ガン病棟』を相次いで連載し、266万部という史上最高の発行部数を数えたのをピークに、1991年には95万8000部に減少し、1992年には25万、1993年7万4000と毎年部数を減らし、1997年末には1万5000にまで落ち込んでしまった。生活難のなかで国民の文学離れが進み、作家たちの生活もまた困難になり、文学そのものも衰退した。

[大木昭男]

ロシア・ブッカー賞

そのような状況において、1992年、イギリスのブッカー社によって新たに創設されたロシア・ブッカー賞は、外国資本によって作られた文学賞であり、その賞金が1万2500米ドルということでロシア社会の注目を集めた。その第1回受賞者は、マルク・ハリトーノフМарк Харитонов/Mark Kharitonov(1937― )で、受賞作は彼の長編『運命の線、またはミラシェービチの櫃(ひつ)』(『ドルージバ・ナロードフ』誌所載)であった。また、このとき女流作家のリュドミーラ・ペトルシェーフスカヤLudmilla Petrushevskaya(1938― )の中編『時は夜』(『ノーブイ・ミール』誌)に小ブッカー賞(賞金4000英ポンド)が与えられた。ハリトーノフはソビエト時代にはその作品がほとんど刊行されることがなかった作家で、亡命作家ウラジーミル・ナボコフを初めとするロシア・ポストモダニズムの系譜に連なる作家であり、彼の長編は、「ロシア・ポストモダニズムの古典」となるだろうとみられている。

 19世紀に全盛を極めたリアリズムのアンチテーゼのように、シンボリズムやアバンギャルド芸術の諸流派が20世紀初めに現れたと同様に、ソビエト時代に全盛を極めた社会主義リアリズムにとってかわって新たに登場したのが、「ポスト・モダニズム」とよばれる文学潮流であった。それはたちまちポスト・ソビエト時代の、流行の文学現象となっていった。ハリトーノフの小説に関していえば、作中の文芸学者が発見した作家ミラシェービチのテキストのもろもろの断片の解釈を通して、そこに登場する過去の作家の運命を推理し、人間存在について考察していく構成手法を特徴としてもっている。

 ロシア・ブッカー賞はその後ロシアでもっとも権威ある文学賞の一つとなり、第2回(1993年度)は、ウラジーミル・マカーニンВладимир Маканин/Vladimir Makanin(1937―2017)の『ラシャで覆われ、真ん中に水差しの置かれた机』(『ズナーミャ』誌)、第3回(1994年度)は、ブラート・オクジャワの『閉鎖された劇場』(『ズナーミャ』誌)、第4回(1995年度)は、ゲオルギイ・ウラジーモフの『将軍と彼の軍隊』(『ズナーミャ』誌)、第5回(1996年度)は、アンドレイ・セルゲーエフАндрей Сергеев/Andrey Sergeev(1933―1998)の『切手アルバム――人々、物、言葉、関係のコレクション、1936年から1956年まで』(『ドルージバ・ナロードフ』誌)、第6回(1997年度)は、アナトーリイ・アゾーリスキイАнатолий Азольский/Anatoliy Azol'skiy(1930―2008)の『檻(おり)』(『ノーブイ・ミール』誌)が、それぞれ受賞した。しかし、西側資本主導によるこの賞への反発も強く、1995年にはロシアの『独立新聞』が自国銀行資本の後援を得て、「アンチブッカー賞」を創設し、その第1回受賞作は、アレクセイ・ワルラーモフАлексей Варламов/Aleksey Varlamov(1967― )の小説『誕生』であった。それは、結婚して12年目にして初めて妊娠した35歳の女性が、早産で生まれ、生死の境をさまよう未熟児の危機的状況を夫と力を合わせて乗り切って育てていく感動的なリアリズム小説である。ただ、ソビエト時代の作品と違うのは、そこに信仰的要素が入っており、しかもそれが作品のキーポイントとなっている点である。これは、ポスト・ソビエト時代に正教信仰が復活し、教会が活発化している現実の反映であろう。

[大木昭男]

ベローフとラスプーチン

1998年になると、8月のロシア金融危機の影響もあって、ロシア・ブッカー賞の存続も財政的な面で危うい情勢となった。イギリスのブッカー社がここにきて、「ブッカー賞」という名だけを残して、ロシア側に財政的な肩代わりを求めてきたからである。

 ブッカー賞にノミネートされるような作品はまったく生み出さなかったが、西側文明追随の風潮に抗して、独自の道を歩み続ける民族派系の代表的文芸誌に『ナッシ・ソブレメンニクНаш современник/Nash sovremennik』(発行部数1万5000)がある。ここでの代表的作家は、すでにソビエト時代に「農村派作家」として知られたワシーリイ・ベローフとワレンチン・ラスプーチンである。1920年代末の富農撲滅と農業の集団化運動をテーマとしたベローフの大河小説『大激変の年』第3部が、同誌において1994年の初めに完結をみた。

 一方、ラスプーチンは意欲的長編ルポルタージュ『シベリア、シベリア…』(1991)を刊行したのち、1995年に『病院にて』と『あの同じ土の中へ』という二つの短編を同誌に発表した。前者には、回復に向かっていく主人公と同室の入院患者(ソ連時代の党官僚)との対立的な会話を通して現実批判が展開されており、散歩に出た主人公が耳にする教会の鐘の音と修道士ロマーンの歌声に、荒廃したロシアの魂復活への希求が表明されている。後者は、年金生活に入った初老の女性が亡くなった老母の葬式費用がないために森の中に不法に埋葬する話である。翌年春に墓参りに来た主人公は、意外にもその両隣に同じような二つの墓がつくられているのをみる。その一つは、なんと老婆の墓を掘ってくれた男の墓であった。ここには生活に困窮した庶民の悲惨な現実が痛みを込めて描かれている。この短編もまた、宗教的な結末で終わる。すなわち、主人公は教会に立ち寄ってろうそくを3本求め、2本は死者の追善に、1本は主人公の魂の救いのために点(とも)されるのである。この二つの短編は、崩壊後のロシアの現実を鋭く描き出しており、読む者の心を動かさずにはいない。ちなみにラスプーチンはこの2作で、1996年度に新設されたイタリアの国際的文学賞を受けており、さらにその副賞選考のためにモスクワ大学や文学大学の学生たちなど400人の若者たちに人気投票させたところ、ラスプーチンのこれらの短編がイスカンデルの『人間とその周辺』とペトルシェーフスカヤの『最後の人間の舞踏会』に大差をつけて1位となったことが報じられた(『文学新聞』)。

 ここ数年間にロシア・マスコミ界の話題作となった小説としては、ウラジーミル・ソローキンVladimir Georgievich Sorokin(1955― )の『ロマン』(1994)や、ビクトル・ペレービンViktor Olegovich Pelevin(1962― )の『チャパーエフと空虚』(1996)などがあるが、話題性はあるにしても、果たしてこれらが後世に残るような作品となるかどうか疑問である。国民の思考・感情に根ざしているという点では、ラスプーチンのような作家のほうが重みがあり、19世紀の黄金時代の伝統を受け継いだそのような文芸流派が、21世紀におけるロシア魂の復活とともに必ずやふたたび栄えるときがくるであろうと思われる。

 ラスプーチンは1997年、『ナッシ・ソブレメンニク』誌に「我が宣言」と題するエッセイを発表し、「ロシア人作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した」と述べ、文学には、自分の「生まれた土地に徹頭徹尾奉仕する以外にほかの選択はないし、ありえない」と宣言して、その立場から、積極的な創作活動を展開し始めた(1997年の短編『思いがけなく、意外にも』、1998年の『新しい職業』など)。ロシア文学の市民的伝統は、彼のような社会的使命感をもった作家のなかに生きており、そのような創作活動のなかにこそ未来があるだろう。

[大木昭男]

ロシア文学の日本への影響


 ロシア文学の日本への紹介は1822年(文政5)ナロードニキ革命家の伝記が『烈女の疑獄』『鬼啾啾(きしゅうしゅう)』として紹介されたときに始まる。その後プーシキンの『大尉の娘』が『花心蝶思録(かしんちょうしろく)』、トルストイの『戦争と平和』が『泣花怨柳(きゅうかえんりゅう)・北欧血戦余塵(よじん)』として部分訳されるが、本格的な紹介は1888年(明治21)長谷川二葉亭(はせがわふたばてい)(二葉亭四迷)によるツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』の訳出であり、これはその文体の新しさで近代日本文学の成立に大きな役割を果たした。1892年には内田魯庵(ろあん)訳でドストエフスキーの『罪と罰』が紹介され、北村透谷(とうこく)、島崎藤村(とうそん)らに深刻な影響を与えた。

 明治から大正にかけては、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、アンドレーエフ、アルツィバーシェフらが精力的に紹介され、ロシア文学は日本でもっとも人気のある外国文学となった。新劇の成立もチェーホフ、ゴーリキーを抜きにしては語れない。昭和に入ると、プロレタリア文学運動がマルクス主義文芸理論に大きな関心を示した。しかしなにより大きかったのは、トルストイと、とくに米川(よねかわ)正夫訳で出たドストエフスキーの影響で、これは小林秀雄、埴谷雄高(はにやゆたか)のみならず、太宰治(だざいおさむ)、椎名麟三(しいなりんぞう)、武田泰淳(たいじゅん)、大江健三郎に至る戦後文学にも顕著に認められる。

 ソビエト文学の影響はロシア文学に比べて見劣りし、ショーロホフ、エレンブルグ、アクショーノフ、ソルジェニツィンらの文学がそれぞれの時代に関心をよんだにとどまる。政治的に理解された社会主義リアリズム論の悪影響であろう。そのなかでラスプーチン、アイトマートフらが現代文学で注目されている。

[江川 卓]

『木村彰一・北垣信行・池田健太郎編『世界の文学史5 ロシアの文学』(1966・明治書院)』『木村彰一編『ロシア・ソビエト文学』(毎日ライブラリー)』『米川正夫著『ロシア文学史』(角川文庫)』『金子幸彦著『ロシア文学案内』(岩波文庫)』『スローニム著、神西清・池田健太郎訳『ソヴェト文学史』(1976・新潮社)』『江川卓著『現代ソビエト文学の世界』(1968・晶文社)』『大木昭男著『現代ロシアの文学と社会』(1993・中央大学出版部)』『井桁貞義著『現代ロシアの文芸復興』(1996・群像社)』『阿部軍治著『ソ連崩壊と文学』(1998・彩流社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ロシア文学」の意味・わかりやすい解説

ロシア文学 (ロシアぶんがく)

ロシア史は激しい断絶の歴史である。ソビエト革命という一国家体制の全面的崩壊以前にも,キエフ・ロシアの滅亡,北西ロシアにおける諸共和国の崩壊,ロマノフ王朝成立前の17世紀における〈動乱〉,そしてピョートル大帝(1世)の改革という大激変をロシアは経験している。ロシアはそのたびに政治的骨組みを立て直し,精神の再教育をはからなければならなかった。

ロシア文学はロシア史のこのような激変に敏感に対応してきた。ロシアの文学ほどその時々の社会的・政治的問題を強烈に反映している文学はほかにない。ロシア史における最初の強烈な断絶として,さらに10世紀末の東方正教の国教化をあげることができる。このキリスト教への改宗の結実としてロシア文学は生まれたのであって,以後,キリスト教につちかわれた真摯なヒューマニズムが,上述のその時々の現実への強い関心と並んで,今日に至るまでロシア文学のユニークな伝統として生き続けているのである。なお本項では〈ロシア文学〉を〈ロシアおよびソビエト連邦において,ロシア語を用いて創作された文学〉とし,この基準にもとづいていわゆる〈古代〉ロシア文学から現代の作品までを概観する。旧ソ連邦内のロシア語以外の言語による文学については〈ソビエト文学〉の項を参照されたい。

ロシアは西欧諸国と比べると歴史の連続性を欠き,そのため安定した統一のとれた多層的な文化を生み出すことができなかったが,その代り豊かなフォークロア(口承文学)が民衆の間で代々伝承され,保持された。ロシアの民衆叙事詩ブイリーナ,おとぎ話,伝説,歌謡はヨーロッパで最も洗練された美しさをもち,ロシア文学の民衆的性格の形成に貢献し,ことにロマン派時代以後,ロシア詩に大きな影響を与えた。民衆文化はロシアの近代化・西欧化の大波の底で生き続け,L.トルストイやモダニズム時代の作家たち,さらには今日の農村派文学の作家たちに霊感を与え続けている。

ロシアはローマからではなく,東方のビザンティン帝国からキリスト教を取り入れ,それと同時にギリシア語の強い影響を受けた教会スラブ語(古代教会スラブ語)を文語として受け入れた。このことはラテン語とカトリックで統一された,いわゆる〈ラテン的中世〉と異質の文化を生むもととなった。東方正教(東方正教会)の受容はこのように西欧との分裂の始まりであったが,これは古典ギリシアの観念,感覚でいろどられたキリスト教の受容にほかならず,善と美の一致というギリシア的イデーがロシアにもたらされることになる。道徳的美しさの理想というL.トルストイやドストエフスキーの文学の特徴はここに淵源をもつ。

東方正教の導入にもかかわらず,キエフ・ロシアと西欧との間には深い人的・文化的つながりがあったが,13世紀半ばからタタールの支配による〈鉄のカーテン〉が240年間も続いた(タタールのくびき)ため,西欧のルネサンス,宗教改革から切り離された。タタール支配から解放された後もモスクワ公国は文化的鎖国政策をとり続け,いわば中世文化をそのまま温存した形で18世紀を迎えることになる。この中世文化はきわめて農民文化・民衆文化の色彩が濃厚で,たとえばゴーゴリの作品の中にみごとに反映されている。この中世的要素こそしばしば西欧側からアジア的と誤認される要素なのである。ピョートル大帝による近代化・西欧化政策が激越にならざるをえなかった理由もここにある。ピョートルの改革以後,西欧文化はストレートにロシアに移入されるようになった。文学流派,文学思潮の継起,交替も西欧のたどった道程を追うことになった。

 西欧文学の中で,ロシア文学に最も大きな影響を与えたのはまずフランス文学であり,ドイツ文学がこれに次ぐ。古典主義時代には前者が,ロマン主義時代には後者が優越するという具合に,影響の度合は時代により,また作家により異なるが,対立し補完し合う二大要素としてロシア文学に大きな影響を与え続けた。ロシア文学は急速に発展して,1世紀足らずの間に,西欧の文学をもっぱら受容する側から,その富を西欧に返す側に回る。世界文化史的に見てもまれに見るこの劇的変貌はいわゆるペテルブルグ時代(ペテルブルグとそれが改称されたペトログラードが首都であった1712年から1918年まで)の所産である。

ロシアのアジア的性格ということが,アジア系遊牧民との絶えざる戦い,タタールによる支配という歴史的事実から類推されることがある。しかしキリスト教文化の東端のフロンティアにあって異教徒と戦ってきたロシアは,西欧にとっての西端であるアメリカ同様,きわめて戦闘的で徹底した護教意識を育ててきた。スペインと同じくロシアも,キリスト教世界の辺境として,辺境であるがゆえに非キリスト教的要素を強めたことも,非ヨーロッパ的になったこともない。ロシア建国にあたってノルマン系外来者の力が大きな力となったように,ロシア文学の発展期には外国系の人々の果たした役割は大きい。アフリカ系のプーシキン,トルコ系のジュコーフスキー,スコットランド系のレールモントフ,遠い先祖にドイツ系の血をもつL.トルストイ,およびエレンブルグ,バーベリ,パステルナークなどの20世紀のユダヤ系作家はそのよい例である。この点も異種の民族の混交よりなるアメリカと似た面をもっている。ヨーロッパの東西両端にある国は,新天地を求めるヨーロッパ人のフロンティアであり,吹きだまりだったのである。限りない大地の広がりをもつ両国は,西欧的な安定した秩序ある市民社会の伝統や多層的な文化の多様性を文学の基盤として有せず,その文学はいずれも観念的・理念的方向へ向かう傾向をもっている。

異民族タタールによる支配,イワン雷帝(4世)からピョートル大帝,そしてスターリンに至る専制,弾圧,粛清のもとであえぎ,社会の後進性,立ち遅れた制度,農奴制という近代における奴隷制,階級間の隔絶といった社会的矛盾に苦しむという歴史的状況とロシア文学の特色とは切り離して考えることはできない。またロシアでは議会のような社会的発言の演壇がなく,言論の自由も検閲によって制限されていて,社会評論・政治的発言の場がなかったから,文学が唯一の〈演壇〉であった。これがロシア文学が深い思想性・政治性をもたざるをえなくなった外的条件の一つである。文学は政治的・社会的意見をほとんど発表できないような反動的な時期でも人々に何らかの視野を提供してくれた。このような状況から,作家を実存の謎を解き明かしてくれるかもしれない賢人と見,つねに真実の探求にはげむ賢者と見なすロシア的伝統が生まれる。ロシア文学は伝統的にアンガージュマン(社会・政治参加)の文学であった。文学批評は文学作品を解説し,検閲の目をかすめて政治的・社会的発言をその中にしのびこませるという方法によって,社会評論の代役を果たすことになった。文学はかくしてロシア帝国の〈法〉と反体制との闘争の最も重要な果し合いの場となった。国家の側も文学の重要性,社会的役割を認識しており,指導・監視の目を怠たらなかった。検閲体制の厳しさ,作家と国家の緊張関係は,旧ロシア時代,ソビエト時代を通じてこの国の文学を特徴づけている。追放,流刑,処刑,亡命という運命がこの国の作家の上にはしばしばふりかかった。このような迫害によって,作家の側の求道者的・殉教者的態度もいっそうラディカルになってくる。

ロシアの作家は,〈人はいかに生くべきか〉〈なぜわれわれはここに存在するのか〉という根源的な問題,哲学・宗教・倫理の問題に深く心を奪われていた。ピョートル大帝の急激な近代化がもたらしたひずみ,西欧化したエリートと中世的農民文化の中にとどまる大多数の貧しい民衆(ナロード)との間の深い亀裂というロシア史上の決定的な問題(これは当時〈呪われた問題〉と呼ばれていた)がロシア作家の心に重くのしかかっていた。作家たちはあるいはロシアの民衆のもつたくましさや精神の美しさを認め,あるいは民衆の保持している純粋なキリスト教信仰を賛美し,その豊かさを文学の中で描こうと努めた。やがて民衆文化の中に民族精神の精髄を見いだそうとするドイツ・ロマン派のイデオロギーの影響がここに加わることになる。19世紀になって先進西欧諸国の文明の堕落が批判されるようになると,文明の悪に染まっていないロシアのナロードの存在がロシア作家のまえで輝きを増してくる。このナロードがみじめな状態におかれていることに対して,ロシアのエリートは良心の呵責(かしやく)に苦しんだ。いわゆる〈悔い改めた貴族〉が生まれる。その社会改革的使命感は求道者的作家L.トルストイによって最もよく体現されているが,インテリゲンチャの1870年代の〈ブ・ナロード(人民の中へ)〉という運動もやはりこの使命感の表現であった。

ロシア文学の名声を世界的に高めるきっかけとなったのは,ロシアの小説である。小説の黄金時代は,ちょうどアレクサンドル2世の治世期間(1855-81)と一致している。ツルゲーネフの《ルージン》(1856)に始まり,ドストエフスキーの《カラマーゾフの兄弟》(1879-80)で終わり,ツルゲーネフとドストエフスキーの死,トルストイの文学放棄宣言という劇的事件によってしめくくられる時代である。

しかし,その一時代前に詩の黄金時代があったことを忘れてはならない。ピョートル大帝の近代化とともに始まったロシア近代文学の歩みも,18世紀100年の長い徒弟期間を経て,文学の基礎となるべき文章語がようやくプーシキンの時代に確立期を迎える。そしてその文章語の花が最初に結実したのが詩の世界である。1783年生れのジュコーフスキーは別格として,92年生れのビャーゼムスキーから1809年生れのコリツォーフAleksei Vasil'evich Kol'tsovに至る約20年間の間,ほとんど毎年1人というような割合ですぐれた詩人が生まれ,これらの人々がロシア詩の黄金時代を担うのである。この時代の言語的実験の蓄積の上に小説の黄金時代が花を咲かせることになる。1880年以降の文学の一般的不振の中から,19世紀末にふたたび詩がよみがえってくる。ロシア詩の〈銀の時代〉といわれる時代である。文学史的には象徴主義,あるいはより広い定義でモダニズムと呼ばれる時代である。小説の黄金時代は前と後から〈詩の時代〉にはさまれているのである。

ロシア人はイタリア人と並んで最も身ぶりによる感情表現が豊かな民族とされている。ロシア演劇を考える時,すぐ思い浮かぶのはモチャーロフPavel Stepanovich Mochalov(1800-48),シチェプキン,それに国際的名声を得たエルモーロワのような俳優かスタニスラフスキーやメイエルホリドのような演出家である。ひとことでいってロシア演劇の名を高からしめたのは劇的表現力に富んだロシア民族の生んだ名優と名演出家であって,必ずしも演劇の基礎であり,〈文学的部分〉である戯曲ではない。劇作のみに専念した作家としてあげられるのは,A.N.オストロフスキーとスホボ・コブイリンの二人にすぎない。大劇作家という観点から見れば,A.N.オストロフスキーとA.P.チェーホフの二人につきる。この二人を除くと,文学史的にはロシアの劇作は,1作家1作品という形での作品群のつながりといってよいだろう。グリボエードフは《知恵の悲しみ》,レールモントフは《仮面舞踏会》,ゴーゴリは《検察官》,ツルゲーネフは《村のひと月》,L.トルストイは《闇の力》,ゴーリキーは《どん底》でそれぞれ記憶されている。これらの作家はみな他にも劇作品を書いてはいるが,演劇愛好者の目から見れば,それぞれ1作が記憶にとどまるだけであろう。

文学的に最もすぐれた自伝・回想録としてはゲルツェンの《過去と思索》(1852-68),ゴーリキーの《幼年時代》(1913-14),《人々の中で》(1915-16),《私の大学》(1923),《回想》(1924-31)の4編があげられるが,フィクションの形をとっていながら実は作者やその家族,祖先についての忠実な記録となっている作品がロシア文学には数多くある。《家族の記録》(1856)で知られるS.T.アクサーコフの作品や,ドストエフスキーの《死の家の記録》(1862)がそれである。L.トルストイの作品は自伝的三部作《幼年時代》(1852),《少年時代》(1854),《青年時代》(1857)だけではなく,《戦争と平和》のような作品でもきわめて自伝的である。

ロシア近代文学の他のジャンルがすべてそうであるように,ロシア文学批評もヨーロッパ批評史の欠くことのできない一部である。ロシア批評の父ともいうべきベリンスキーの生きていた時代は,ニコライ1世治下の社会的無感覚の体制下に生きていた青年が西欧からもたらされる思想を不条理なまでの熱意でくみとり,それを実行に移そうとし,またそれを極端な結論にまで発展させようと身構えていた時代である。消化吸収された最初のイデオロギーはドイツ・ロマン主義のイデアリズム(理想主義,観念論)であった。人間としても芸術家としても一貫して全面的に社会のために献身せねばならぬ,作家はまず第一に人間であり,自分に責任をもち,真理を語り,すぐれた作品を作らねばならぬというベリンスキーの理念は,まさにロマン主義哲学から生み出されたものである。人生と芸術の間にはっきりと線を引かないタイプのロシア的社会批評は,ベリンスキーの創始した方法である。彼の批評はツルゲーネフをはじめ作家たちによって真剣に受けとめられ,創作の面に大きな寄与をしたが,インテリゲンチャの進歩的人生観をつちかうという点で,より大きな社会的意味をもった。

 ベリンスキーの弟子たちの時代になると,俗流唯物論,実証主義,イギリスに由来する功利主義などの影響を受け,より急進的な方向に向かい,ドストエフスキー,L.トルストイ,レスコフ,チェーホフなどと激しく対立することになる。ジャーナリズムの主流を占めた功利主義的批評派が文学的価値や技法を軽視し,芸術としての文学の視野をせばめたことの悪しき影響は,1870年代以降の文学的不毛という結果を生んだ。文学ジャンルとしての批評がよみがえるためには,20世紀初頭に開花したロシアの文化的ルネサンスの子として生まれたロシア・フォルマリズムを待たなければならない。革命後は,ベリンスキー以下の急進派の伝統がマルクス主義と結びついた形で,ソビエト批評の主流派が生まれたが,フォルマリズムはそれとせめぎ合い,融合し,西欧の新批評や,ヌーベル・クリティクと通ずる構造主義的批評を展開した。今日のソビエト記号学派はその所産の顕著な例である。

ロシア文学には社会問題や倫理的・道徳的問題についての意識が強いが,このような問題を的確にとらえる方法として常にリアリズムが優位を占めているという主張がある。他国と比較するとロシア文学においてはリアリズム的傾向が特に際だっているように見える。しかしこれは,ドイツ文学が本質的にはロマンティックであるとか,フランス文学の本質は古典主義的傾向にあるという特徴づけと同列の定義として理解されるべきである。ロシア文学においてはどんな時代でもリアリズムが主流で,それ以外のロマン主義や象徴主義などは逸脱であって,誤った道であると考えるのは学問的ではなく,反歴史的である。どんな文学にも主流と反主流があって,たがいに絡み合い,時には反主流が表に出て多彩な歴史を形づくっていく。ロシア文学の特徴として,率直・平明・簡潔で機能的な文体,風景・生活の詳細で事実に即した描写という定義づけがなされるが,これはプーシキンに始まってツルゲーネフ,L.トルストイ,チェーホフへと引き継がれるロシア文学の本流の特徴である。これに対して奇想,ユーモア,凝った文体,文学的実験という流れも,ゴーゴリからドストエフスキーに受け継がれ,さらに20世紀のモダニズムを経てソ連時代まで続いている。

他のスラブ諸国と同じく,ロシアにおいても貴族が文学の担い手であった時代には,ロシア語と変りなく自由に西欧諸語をあやつる作家は多かった。チャアダーエフの《哲学書簡》(1829-31)はフランス語で書かれた代表的な作品(ロシア語での発表は1836年)であるが,日常的な社交語としてフランス語が用いられた時代が長かったから,日記,書簡を文学ジャンルとしてみれば,外国語で書かれたロシア文学の量ははるかに多くなるであろう。詩の用語としてしばしばフランス語が用いられたことを考え合わせると,ちょうど日本における漢文と似た役割をフランス語が果たしていたと考えられる。ゲルツェン,バクーニン,クロポトキンなどの亡命者は国外で西欧諸語による多くの著作を残している。

スラブ圏文学全体の起源は,863年の東ローマ帝国の修道士キュリロス(ロシア名キリール)およびその兄メトディオス(ロシア名メフォーディ)の伝道活動と密接にかかわっている。ロシア文学はキエフ大公ウラジーミルによるキリスト教国教化(989)と前後して,教会スラブ語によるビザンティン教会文献の翻訳がもたらされた時に,はじめて成立の可能性を与えられた。教会スラブ語はブルガリア・マケドニア系の一方言を基礎とする文語で,ロシア語にきわめて近く,ロシアでは17世紀に至るまで広く用いられた。教会スラブ語にロシアの生きた口語の要素をまじえた文語,いわゆる〈古代ロシア語〉がこの時期の文学の用語であった。

聖書を中心とする翻訳活動に影響されて,11世紀からオリジナルなロシア文学の作品が現れるようになる。文献として現存する最古の翻訳作品は《オストロミール福音書》(1056-57)である。11世紀中ごろから17世紀末までの約650年間は慣例として〈古代ロシア文学〉と名づけられている。〈古代〉という用語は通例5世紀前後までを示す歴史的概念と混同されやすく,誤解を生む。これはDrevnerusskaya literatura(Old Russian literature)の翻訳であるが,時代の大部分は中世にあたるのであるから,Old Englishを〈古英語〉と訳す例にならうか,あるいは〈初期文学〉ないし〈中世文学〉として理解されるべきである。この時期の作品は宗教的ないし教訓的な色彩の強いものが中心をなしており,あるいはなんらかの実用的な目的をもつものが多い。これは文字によって定着される作品の書き手の大部分が聖職者であったことと,他の文化領域から判然と区別される領域としての〈文学〉という概念がなかったことに由来する。ロシア人の美的芸術的才能は,11世紀以前から存在していた世俗的な口承文学の面で発揮されていた。

(1)ロシアの〈中世文学〉の最初の時代は,作品はキエフを中心とする南ロシア地方で書かれている。それゆえ11世紀から13世紀半ばに至る200年間は〈キエフ時代〉と呼ばれている。この時期の代表的作品は《原初年代記》(《過ぎし年月の物語》)と《イーゴリ軍記》(《イーゴリ遠征物語》)である。前者は11世紀半ばからキエフの修道士たちによって書きつがれ,12世紀の10年代に完成したもので,さまざまな資料や異教時代の伝説を取り入れ,文学的価値の高い部分が多い。後者はロシア中世文学最大の傑作であって,1185年南ロシアのイーゴリ公が東方のチュルク系遊牧民のポロベツに対して行い敗北に終わった遠征を題材に,複雑な詩的リズムと,高度な文体的技巧を駆使して書かれた作品である。作者は不詳であるがロシア吟遊詩人の伝統とビザンティン文献に通じた教養人であったらしい。

(2)キエフ時代の文学伝統は,1237年から1480年までの約240年間のタタール人支配の時代に絶え,もっぱら修辞的技巧を発達させた聖者伝が主流を占めるようになった。しかしこの時代に〈タタールのくびき〉に苦しむ人々の精神的支えとしてキリスト教が深く浸透し,ロシアは宗教的にも文化的にも一元化への方向に向かった。またロシア美術がアンドレイ・ルブリョフ(1370ころ-1430)によって,このころ最盛期を迎えていたことは記憶されておかねばならない。

(3)タタール支配から解放され,モスクワ大公国のもとで統一された,16~17世紀にまたがるモスクワ時代は,モスクワの世俗権力と教会との調和に基づいて貴族から農民に至るまで一元的な文化の枠組みの内で生きていた,いわゆる〈聖なるロシア〉の時代であった。しかし極端な鎖国政策がとられ,ロシアは西欧からも他のスラブ諸国からも完全に孤立した。神政国家の理念の代弁者であったモスクワ府主教マカーリー(1483ころ-1563)の《大聖者伝集成Velikie Chet'i-Minei》(1552)はロシアの民衆の宗教心を養う糧となり,民衆の信仰を通して19世紀ロシア文学にも大きな影響を与えた。16世紀には,〈政治的社会評論〉の傑作であるイワン雷帝と彼に敵対するクールプスキーAndrei Mikhailovich Kurbskii公(1528-83)との《往復書簡》(1564-1579),家父長主義のみごとな表現である《家政訓Domostroi》(16世紀初頭)など特異な作品が多い。モスクワ時代の一元性,孤立性は17世紀初頭の〈動乱〉,17世紀半ばの〈教会分裂(ラスコール)〉によって根底からゆるがされ,文学の中にも新しい要素が現れる。世紀後半の〈世俗物語〉と呼ばれる宗教的色彩の少ない作品群や,教会分裂の際の分離派教徒の指導者アバクムの《自伝》(1672-75)がその代表的作品である。後者は元来〈聖者の伝記〉を意味した〈ジチエーzhitie〉という名称を自作の表題にかかげつつ,自分自身の生涯を生きた口語的なロシア語で赤裸々に描いた力強い作品である。

モスクワ時代の孤立性にとどめをさしたのがピョートル大帝による近代化・西欧化政策を軸とする〈文化大革命〉である。これ以後200年間の〈ペテルブルグ時代〉を通して,ロシア文学はヨーロッパ文学の不可分の一部となった。この時期の時代区分をどのようにするかについては諸説があり,ソ連の文芸学者コージノフのように,国民文学としてのロシア近代文学の成立をナポレオン戦争時に置くという主張もあるが,ここでは西欧とのつながりを重視するという立場から様式史的に展望する。

(1)バロック ピョートル大帝の登場以前に,宮廷詩人ポロツクのシメオンSimeon Polotskii(1629-80)により,ポーランド=ウクライナのバロック文学がロシアに導き入れられた。彼は白ロシア出身で,キエフの神学校に学び,詩や劇の分野で数多くの作品を書いている。首都建設者ピョートルの好みは彼の愛したオランダのバロックにあったことも重要なポイントである。ドイツ出身のエカチェリナ2世の古典主義志向が,絵画,彫刻,建築,文学などの領域に広く影響を及ぼしたことに見られるように,18世紀の文化の揺籃時代には専制君主の意志は西欧の時代動向を強く反映しているがゆえに,ロシアの同時代の動向を左右するだけの力があった。モルダビア公国の君主の息子で風刺詩人のカンテミール,学者詩人トレジアコーフスキー,ロモノーソフがバロックの代表的作家である。科学者でもあったロモノーソフは,留学地ドイツのバロックの影響を強く受けているが,彼の頌詩(オード)には科学的発見と詩想を結合させた壮大なバロック的コスモゴニー(宇宙生成物語)が見られる。

(2)古典主義 エカチェリナ2世(在位1762-96)の治世下,他の芸術分野と同じく文学においても,バロックの大げさなスタイルは後退し,古典主義的節度の時代が始まった。悲劇作家スマローコフ,叙事詩人ヘラスコフMikhail Matveevich Kheraskov(《ロシアーダ》1779),喜劇作家フォンビージン(《親がかり》1782)が代表的な作家である。18世紀最大の詩人デルジャービンは古典主義の規則を無視し,バロック的な荘重な文体を好む一方で,イギリス〈墓地派Churchyard school〉(T. グレー,ヤングなど)の影響下にロマン派に接近する。この時代の活発な文化活動は,啓蒙思想の運動に反映し,ラジーシチェフ(《ペテルブルグからモスクワへの旅》1790),ロシア・ジャーナリズムの創始者でフリーメーソンであったノビコフらを生むことになる。文学史的により重要なのは,西欧で通例プレ・ロマンティシズムと呼ばれている流派に対応するセンチメンタリズム(主情主義)という文学潮流である。ラジーシチェフは文学的にはこの派に属している。軽快典雅なフランス語法を取り入れ,古典主義に軽やかさをとりもどしたカラムジンが中心的作家であったために,この派はカラムジン派とも呼ばれている。

(3)ロマン主義 徒弟時代にもたとえられる18世紀ロシア文学からの脱皮は,ロマン主義の旗の下に行われ,古典主義の狭い文学規範からの脱出は19世紀初頭のナポレオン戦争の結果生まれた民族的覚醒によってはずみをつけられた。ロシアのみならずスラブ圏全体におけるロマン主義の重要性は,それが単に文学の領域にとどまらず,イデオロギー,世界観として文化全体,人の生き方にまで影響を与えたという点にある。1810年代,カラムジン派に属するジュコーフスキー,ビャーゼムスキーらがロマン主義への道を開き,プーシキン,ルイレーエフらが加わる形で1820年代にロマン主義は最初の高揚期を迎える。25年のデカブリスト反乱はむしろロマン主義的イデオロギーを強めることになり,これ以後のロマン主義はそれまでの文体論議中心の文学的現象から脱し,より思想的哲学的色彩を強めていく。西欧派対スラブ派の論議,チュッチェフ,レールモントフに代表される思索的哲学的傾向はその所産である。詩の黄金時代を開いたロマン主義は30年代には散文の時代を迎える。プーシキンに代わってロシア文学の中心となったのがゴーゴリである。40年代初頭ゴーゴリの影響下に〈自然派〉と呼ばれる文学グループが形成された。この流派は世界観的にはまだロマン主義に属しているとはいえ,文学的タブーをいっさい取り払って低級卑俗なものを含め,細部描写に関心を寄せる点でリアリズムへの架橋の役を果たした。リアリズム作家グリゴロービチ,N.A.ネクラーソフ,ドストエフスキーらもこの派から出発した。

(4)リアリズム 現実を無意味な非条理なものとしてとらえる〈自然派〉特有の誇張的表現やグロテスクが克服されて1840年代後半にリアリズムへの道が開かれ,19世紀後半のリアリズム小説の黄金時代が始まる。前述のアレクサンドル2世時代(1855-81)に発表された主要な作品はツルゲーネフの長編6作(《ルージン》1856,《貴族の巣》1859,《その前夜》1860,《父と子》1862,《煙》1867,《処女地》1877),ドストエフスキーの四大傑作(《罪と罰》1866,《白痴》1868-69,《悪霊》1871-72,《カラマーゾフの兄弟》1879-80),L.トルストイの最も重要な小説(《戦争と平和》1865-69,《アンナ・カレーニナ》1875-77),ゴンチャロフの《オブローモフ》(1859),レスコフの《僧院の人々》(1872),サルティコフ・シチェドリンの《ゴロブリョフ家の人々》(1876-80)などである。詩の世界でリアリズムを代表するのはN.A.ネクラーソフであり,戯曲では,モスクワの商人社会を中心に1840年代から80年代までロシア社会をリアルに描いたA.N.オストロフスキー(《雷雨》1859,《森林》1871など)である。リアリズムの残光を飾る短編作家,劇作家チェーホフは,次代のモダニズムへの移り行きをすでに感じさせ,ゴーリキー,ブーニンらも後にリアリズムに復帰するが,一時期モダニズム的手法に従った。

(5)モダニズム 1894年のブリューソフの詩集《ロシア象徴主義者》で口火を切られた象徴主義運動の時代は,ロシア詩の〈銀の時代〉を招来するが,これは文化領域全体にわたるロシア・ルネサンスの始まりであった。文学史的には象徴主義(ブローク,ベールイ,V. イワーノフら。盛期は1910年ころまで),新古典主義的なアクメイズム(グミリョーフ,マンデリシタム,アフマートワ。1912年より),未来派(ロフレーブニコフ,マヤコーフスキーら。1910年より),イマジニズムimazhinizm(エセーニンその他。1919年より)と次々と流派が継起するが,全体としてモダニズム的潮流が第1次大戦,革命をつきぬけて1920年代まで文壇の主流を占めた。ロシア・アバンギャルド,ロシア・フォルマリズムはこの時代の所産である。

ソビエト期に入ると,歴史的事件や共産党・政府の政策変更が作家や文学生活に直接影響を与えるようになるので,時代区分は明確にできる(〈ソビエト連邦の文学〉全体については,〈ソビエト文学〉の項を参照されたい)。

(1)十月革命と国内戦の時代(1917-21) 物資が欠乏し,紙もなく,出版できない戦時共産主義ともいわれる時代に,まず詩人たちが熱狂的な活動を開始した。ブローク叙事詩《12》(1918)を初めとし,マヤコーフスキー,エセーニンらに加えてプロレトクリト,次いでそれから分かれた〈鍛冶場派(クーズニッツァ)〉が登場する。

(2)新経済政策(ネップ)の時代(1921-28) 政治の側からの芸術への規制はゆるやかになり,さまざまな文学集団がしのぎをけずりあいつつ共存した。左翼にはプロレトクリト系の組織,すなわち鍛冶場派,〈十月〉グループなどや未来派系の〈芸術左翼戦線(LEF(レフ))〉,他方の極には学者,批評家のフォルマリスト・グループがあり,トロツキーによって〈同伴者〉と命名された,文学の自律性を主張する〈セラピオン兄弟〉グループなどの多彩な顔ぶれの作家群がいた(同伴者文学)。ソビエト文学の一貫した主題である国内戦,社会主義建設,社会主義的人間像の形成と新旧世代の相克というテーマはいち早くとりあげられた。国内戦をテーマにしたものはフールマノフ《チャパーエフ》(1923),フェージン《都市と歳月》(1924),バーベリ《騎兵隊》(1926),ファジェーエフ《壊滅》(1927)。社会主義建設をテーマにしたものはセラフィモービチ《鉄の流れ》(1924),グラトコフ《セメント》(1925),新旧世代の相克をテーマにしたものはA.N.トルストイの1920年に書き始められ,41年に完成した長編三部作《苦悩の中を行く》,オレーシャ《羨望》(1927)などが代表作である。このほかピリニャーク(《裸の年》1922),レオーノフ(《穴熊》1924,《泥棒》1927),エレンブルグ(《トラストD.E.》1923),風刺文学の傑作としてゾシチェンコ(《シネブリューホフ物語》1922),ザミャーチン(《われら》英語版1924,ロシア語版1927),カターエフ(《浪費家》1926),イリフ・ペトロフ(《12の椅子》1928など)の名をあげておく必要がある。

(3)第1次五ヵ年計画期(1928-1932) 社会主義建設が本格的に開始され,1929年には農業集団化が行われて社会生活のあらゆる領域で深刻な変化が起こった。同伴者作家たちも社会主義建設をテーマとし労働を賛美する作品を書き,プロレタリア系作家に接近していった(カターエフ《時よ,進め》1932,レオーノフ《ソーチ》1930,《スクタレフスキー》1932など)。この時代で最も注目すべき作家はショーロホフ(《静かなドン》1928-40,《開かれた処女地》1932-60)である。

(4)1932-1941年 作家同盟が成立し,社会主義リアリズムの時代が始まった。文学におけるスターリニズムの時代で,1937-38年にかけての大粛清でソルジェニーツィンによれば600人以上の作家が犠牲となった。にもかかわらず,この時代はショーロホフ,エレンブルグ,A.N.トルストイ,レオーノフらの作品が次々と発表され,活気のある時代であった。社会主義リアリズムの美学を最も端的に示す作品は,高いモラルをもった共産主義者の自画像を描いたN.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932-34)である。

(5)第2次大戦期(1941-45) 祖国愛で一致団結した時代であって,統制もゆるめられて多くの佳作を生んだ。トワルドーフスキーの叙事詩《ワシーリー・チョールキン》(1941-45),シーモノフの長編小説《昼となく夜となく》(1944)などがその例である。

(6)戦後(1945以降) 終戦直後のジダーノフ批判(1946-48)は文学をふたたび政治統制の枠にはめこんだ。スターリンの死(1953)の後,〈雪どけ〉の時代が始まり,粛清された作家たちの名誉が回復され,黙殺されていたツベターエワ,ブルガーコフ,プラトーノフなどのすぐれた詩人,作家たちの作品が日の目を見るようになり,文学の復興が始まった。エフトゥシェンコ,アクショーノフ,ソルジェニーツィンという新しい才能が次々と生まれるが,フルシチョフ失脚,ブレジネフ登場(1964)に始まる〈停滞の時代〉にソルジェニーツィンをはじめとする多くのすぐれた作家の追放,亡命が相次ぎ,亡命作家を視野に入れなければ現代ロシア文学の全体像を描くことができないという事態になった。その一方で斬新な手法を試みた〈都会派〉のトリーフォノフ,A.ビートフ,〈農村派散文〉の名で呼ばれ,ロシア的な土着的民族主義的文明批判の立場に立つアブラーモフ,アスターフィエフ,ベローフ,ラスプーチンらが活躍を始め,アイトマートフ,イスカンデールのような非ロシア作家,歴史小説に転じた〈吟遊詩人〉オクジャワのような異色作家が登場し,社会主義リアリズムを中核とするソビエト文学の準則は次第にその実体を失い,さまざまな流派やジャンルの共存,文学の多様化が実作的に可能になってきた。1985年政権についたゴルバチョフのペレストロイカ政策のもとで,この多様化の傾向は一気に加速された。政治が文学に大きく作用するというソビエト文学の伝統は,ペレストロイカのもとでプラス要因として働いており,新たな才能の開花が期待しうる状況となっている。

明治以来近代化の道を模索しつつあった日本人は,18世紀以降の急速な近代化に伴うさまざまな苦悩をヒューマニスティックに描いたロシア文学に,他の外国文学に対する以上の共感を示した。日露戦争を契機にロシア文学への関心がさらに高まり,戦争には勝ったが文学では負けたといわれたほどである。語学的なハンディキャップにもかかわらず,1908年には翻訳の点数で英文学を追い越した。ロシア文学の日本語訳は,朝鮮や中国におけるロシア文学移入のきっかけを作ったという意味で,国際文化史的に見ても重要である。日本人にとってのロシア文学の魅力は,二葉亭四迷がいち早く指摘しているように,〈真面目(しんめんもく)に人生問題の全般に亘って考究し〉〈日本文学者のやうに,文学一点張りで他方面の事は関せず焉で居たのではない〉(《露国文学の日本に及ぼしたる影響》)ところにあった。最も文学的で〈血も涙もある〉ツルゲーネフがまず最初に,奥深い人生・社会問題,思想,観念が文学であつかえる,しかも芸術的な形であつかえるということを日本人に教えてくれたのであって,L.トルストイもドストエフスキーもツルゲーネフの開いてくれたこの水路を通って日本に入ってきた。トルストイの死は1910年でちょうど明治の終りにあたるが,説教者・預言者として,世界の良心として大きな人格的影響力をもっていたトルストイがその家出によって人間的に劇的な生涯を閉じたということは,日本人の感性に特に迫るものをもっていた。芸術座による《復活》上演(1914)という大衆的レベルでの受容を含めて,日本におけるロシア文学受容の上でトルストイの演じた役割は巨大である。これ以後日本のロシア文学イメージ(人道主義的傾向,社会的関心,道徳的探求,心理分析の深刻さ,文学者の求道的使命感など)はトルストイと切り離し難い形で定着した。このようなイメージはドストエフスキーのみならず,きたるべきソビエト文学をも同じような色に染め上げることになる。概括的に見ると,ツルゲーネフが二葉亭四迷によって明治期に,トルストイが武者小路実篤らによって大正期に受容のピークを迎えたのに対し,ドストエフスキーが萩原朔太郎,小林秀雄らに見られるように本格的に受け入れられ理解されるようになったのは,昭和期に入ってからである。二葉亭四迷や有島武郎時代のゴーリキーの評価は高く,大正期にはアルツィバーシェフ,アンドレーエフのような自然主義的傾向の作家やモダニズム系の作家がよく読まれたが,明治末期から今日に至るまで変わることなく最も日本人に愛された作家はチェーホフである。大正末期から昭和10年前後のプロレタリア文学時代には,そのころ労農ロシアと呼ばれたソビエトの文学作品やマルクス主義文学理論が盛んに移入されたが,昭和10年代以降転向という試練に直面した日本の知識人は,いわゆるシェストフ体験を通じてドストエフスキーをより切実に理解するようになる。第2次大戦の終戦を契機として,ロシア文学の古典と並んでソビエト文学の最新の作品が数多く翻訳・出版されたが,スターリンの死とともに社会主義的ユートピアの夢が去ったのと軌を一にして,ソビエト文学受容の盛期は過ぎ去った。しかし日本文学の中にまかれたロシア文学の種子は深く根づき,昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー,トルストイ,チェーホフから影響を受けなかった者はいないといっていい。これら古典作家は今後とも日本人の心の中に生き続けるだろうが,社会主義建設という大事業の中で政治と文学の間で苦闘する現代ロシア文学にも,人間と人間の運命について真剣に考えるという理想主義的態度は脈々として生きており,ロシア文学は,それがソ連国内の文学であれ亡命文学であれ,政治的偏見を越えて今後とも日本の読者の共感を得るであろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロシア文学」の意味・わかりやすい解説

ロシア文学
ロシアぶんがく
Russian literature

ロシア語で書かれた文学作品の総称。東部スラブ民族の間に古くから伝えられてきた歌謡,説話,「ブイリーナ」などの口承文芸と,10世紀末にキエフ公国がギリシア正教を国教と定めて以来の宗教的文書を起源としている。中世ロシア文学の時代はキエフ時代とも呼ばれ,最初期のすぐれた作品としてはイラリオーン主教の『律法と恩寵についての説話』 (11世紀中期) がある。またキエフ大公ウラジーミル2世モノマフの『庭訓』 (1117) は,やや宗教的な色彩を残してはいるが,最初の俗人文学作品とされる。『イーゴリ軍記』 (85~87頃) は中世ロシア文学の初期の代表作とされるが,年代その他の推定については議論の余地がある。また,『ロシア年代記』 (11~12世紀頃) に代表される年代記は,ロシア文学の最も古いジャンルの一つである。 13世紀中期にモンゴルに征服され,キエフ時代の文学の伝統はいったんとだえたが,15~16世紀にモスクワ大公国が台頭し,ロシア文学は再生の兆しをみせた。しかしこの時期の文学は主として学者,特に歴史学者の興味の対象でしかなかった。一般民衆のための文学と呼べる最初の作品は,17世紀後期に主教アバクームが書いた自伝 (→アバクーム自伝 ) である。ロシア固有の文学が発達するのは 18世紀になってからで,M.V.ロモノーソフや G.R.デルジャービンの頌詩 (オード) ,A.N.ラジーシチェフや N.M.カラムジンの記録散文がある。カラムジンは,主情主義の小説『哀れなリーザ』 (1792) でも知られている。
19世紀に入ると,ロシア文学は政府の検閲を受けるようになり,公的には認められなかったにもかかわらず,世界的に重要な傑作を多く生み出した。その黄金時代は A.S.プーシキンに始る。プーシキンの韻文小説『エブゲーニー・オネーギン』 (1833) の多彩さ,音楽性,簡潔さ,独創性は,彼のたぐいまれな抒情詩とともに後世まで大きな影響を与えた。続いて登場した M.Y.レールモントフは,代表作『現代の英雄』 (39~40) によって,プーシキンと並ぶ近代ロシア文学の創始者とされる。 1840年代以降,散文,特に小説は最も一般的な表現媒体となった。 N.V.ゴーゴリは戯曲『検察官』 (36) や小説『死せる魂』 (42) などの名作で,喜劇の才と創造力に富んだ散文詩的なスタイルをみごとに調和させた。 I.S.ツルゲーネフは農奴の窮状を描いた『猟人日記』 (52) で名声を得たが,今日では『ルージン』 (56) ,『その前夜』 (60) ,『父と子』 (62) などのインテリ階層の台頭を描いた作品で知られている。 F.M.ドストエフスキーと L.N.トルストイは,最も偉大なロシア作家とされている。ドストエフスキーは 40年代に創作を始めたが,シベリアへ流刑にされたため実際に活躍しはじめたのは遅く,『罪と罰』 (66) ,『白痴』 (68~69) ,『悪霊』 (72) などのすぐれた心理小説や未完の大作『カラマーゾフの兄弟』 (79~80) など,いずれも 60年代後半以降傑作を発表した。トルストイはナポレオンのロシア侵入を描いた長編歴史小説『戦争と平和』 (63~69) や,愛と死をめぐる悲劇の物語『アンナ・カレーニナ』 (73~77) で小説家としての名声を確立した。 I.A.ゴンチャロフと N.シチェドリンも同時代を代表する作家である。 19世紀末期には,A.P.チェーホフが悲劇的要素と喜劇的要素をあわせもつ短編や,洞察力に富んだ斬新な戯曲で地主階級の没落を描いた。また,労働者階級に共感した M.ゴーリキーは革命の必要性を訴え,のちにソ連作家同盟初代書記長となった。
20世紀の幕あけとともに詩が復活し,A.A.ブロークはその中心的な存在となった。 1917年の革命は V.V.マヤコフスキーや O.E.マンデリシターム,B.L.パステルナーク,S.A.エセーニンらの活動に火をつけた。彼らより 10年ほど遅れて登場した A.A.アフマートワは,ソビエト期のロシア詩人のなかで最も重要な一人である。時を同じくして散文も開花したが,32年にソ連作家同盟が成立し,社会主義リアリズムの時代が始ると,作品の質は次第に低下した。 M.A.ショーロホフの『静かなドン』 (1928~40) はこの頃の貴重な傑作の一つである。 1930年代後半にはスターリンによる粛清が文学者たちにも及び,多くの作家が犠牲となった。 53年にスターリンが死んで,I.エレンブルグ,A.トワルドフスキーらが「雪どけ」を推進したが,政治と文学の対立,抗争はさらに続いた。 70年にノーベル文学賞を受賞した A.I.ソルジェニーツィンは,『煉獄のなかで』 (68) や,自身の体験を軸にソ連強制収容所の内情を描いた『収容所群島』 (73~76) で反体制作家の代表とされる。ペレストロイカ以後,ようやく統制や検閲が廃止され,発禁書が次々と刊行された。亡命作家たちの作品も出版され,これまでのソ連文学とはまったく違う作品が現れるようになった。また,ソ連崩壊はソ連作家同盟をも解体し,ロシア文学はさらに新たな表現の可能性を自由に探りはじめている。

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