万里小路藤房(読み)までのこうじ・ふじふさ

朝日日本歴史人物事典 「万里小路藤房」の解説

万里小路藤房

没年:没年不詳(没年不詳)
生年永仁3(1295)
鎌倉後期の公卿。父は後醍醐天皇側近の三房のひとり万里小路宣房。後醍醐天皇が即位した文保2(1318)年右少弁に任ぜられ,以後翌元応1(1319)年左少弁,中宮大進,同2年左中弁,中宮亮,元亨1(1321)年右大弁,正四位下,同2年記録所寄人,同3年蔵人頭,翌正中1(1324)年参議と毎年昇進し,後醍醐天皇の側近となった。さらに嘉暦1(1326)年権中納言となり,元弘1(1331)年中納言に転じた年,元弘の変が起こり,天皇の笠置行幸に供奉し幕府方に捕らえられ,下総国(千葉県)に流された。幕府滅亡後に帰京,復官したが,後醍醐天皇の新政とあわず,直諫したが入れられなかったので,建武1(1334)年10月5日出家し,その後の消息を絶った。後醍醐天皇の近臣中でも気骨のあるものとして知られ,その逸話は『太平記』などにみられる。

(飯倉晴武)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「万里小路藤房」の意味・わかりやすい解説

万里小路藤房 (までのこうじふじふさ)
生没年:1295(永仁3)-?

鎌倉末建武期の公卿。父は万里小路宣房。後醍醐天皇に仕え,倒幕の企てにも関与した。《太平記》巻三には,天皇が夢想によって楠木正成を召し出したときに勅使をつとめたとある。笠置落城のときにも天皇に付き従っていて捕らえられ,常陸へ流された。建武政権では検非違使別当恩賞方(おんしようがた)筆頭となったが,新政権の乱脈ぶりに失望して京都近郊の岩倉で出家し,その後の消息は不明。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「万里小路藤房」の解説

万里小路藤房 までのこうじ-ふじふさ

1295-? 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
永仁(えいにん)3年生まれ。万里小路宣房(のぶふさ)の長男。後醍醐(ごだいご)天皇の側近。元弘(げんこう)の乱により天皇とともに笠置(かさぎ)山にのがれ,幕府に捕らえられて下総(しもうさ)に流される。建武(けんむ)の新政で復帰したが,新政に失望。建武元年(1334)出家,消息をたった。ときに正二位,中納言。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「万里小路藤房」の意味・わかりやすい解説

万里小路藤房
までのこうじふじふさ

藤原藤房

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万里小路藤房」の意味・わかりやすい解説

万里小路藤房
までのこうじふじふさ

藤原藤房」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の万里小路藤房の言及

【恩賞方】より

…建武政府および室町幕府において恩賞事務を取り扱った役所。1333年(元弘3),建武政府の発足当初に洞院実世万里小路(までのこうじ)藤房,九条光経らを上卿とし,恩賞問題の審議機関として設置された。しかし,後醍醐天皇親裁による恩賞宛行(あておこない)と恩賞方の審議とは必ずしも連携せず,恩賞問題は混乱した。…

【元弘の乱】より

…このたびの幕府の処分は正中の変のときに比べて大規模かつ厳しいものであった。天皇と皇子たちの配流はもとより,幕府は与同者たる僧俗を執拗に追及し,32年4月に二条道平,花山院師賢,万里小路藤房,文観,円観ら20余名を斬首や遠流などに処した。天皇が隠岐へ流されたのは32年3月であったが,幕府との戦いは護良親王や楠木正成らによって根強く続けられた。…

※「万里小路藤房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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