三・一八事件(読み)さん・いちはちじけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三・一八事件」の意味・わかりやすい解説

三・一八事件
さん・いちはちじけん

1926年3月 18日北京で行われた民衆の請願デモに対して段祺瑞政府の衛兵発砲して多数の死傷者を出した事件。 25年 11~12月の郭松齢事件でかろうじて倒壊を免れた奉天派張作霖は,26年1月直隷派呉佩孚との軍事提携に踏切り,3月北京,天津地方の馮玉祥の国民軍に対して攻撃を開始した。この奉直連合軍と国民軍の戦闘中,3月 12日に大沽事件が発生した。これは奉天派の海上からの進攻にそなえて国民軍が大沽港を封鎖した際,日本の駆逐艦2隻が入港してきたため,国民軍側はこれを奉天派の軍艦と誤認して射撃を加え,日本側に重軽傷者3人を出し,これに応戦した日本側の射撃により国民軍側に死傷者十数人を出した事件である。3月 16日,日英米仏などの8ヵ国は,義和団事変最終議定書違反を理由として,封鎖解除など5条件の共同通告を期限付きの最後通牒の形式で国民軍と奉天軍の双方に交付した。両軍とも期限の3月 18日までにこの最後通牒をほぼ全面的に受諾した。この3月 18日に,学生,市民など約 5000人の民衆が北京の天安門前で国民大会を開き,列国の最後通牒に反対し,「帝国主義打倒」「段祺瑞打倒」「8ヵ国公使を追放せよ」などのスローガンを掲げてデモを行い,執政府に陳情しようとして国務院に到着したが,軍警に阻止され,段祺瑞の命令で軍警が民衆に発砲,約 50人の死者と多数の負傷者が出た。広州の国民政府と中国共産党は段祺瑞政権打倒を呼びかけ,広州の民衆も国府による北伐実行を要求し,北伐の準備が本格的に進められ,7月に北伐が開始された。

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世界大百科事典(旧版)内の三・一八事件の言及

【章士釗】より

…のち《甲寅》を東京で発行して反袁闘争に参加,政学系に属して広東軍政府秘書長にもなった。また段祺瑞政府の司法総長として1926年,三・一八事件(日本軍による大沽口占拠に抗議した民衆を弾圧した事件)を起こし,36年には冀察(きさつ)政務委員会の要職に就いた。しかし抗日の立場にたち,解放の際には北京にとどまった。…

※「三・一八事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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