三味線組歌(読み)しゃみせんくみうた

精選版 日本国語大辞典 「三味線組歌」の意味・読み・例文・類語

しゃみせん‐くみうた【三味線組歌】

〘名〙 三味線歌曲の一種。流行歌や民謡歌詞を組み合わせて一曲にしたので、組歌という。日本本土の芸術的三味線音楽最古の種類。文祿一五九二‐九六)のころ、石村検校が始めたといい、虎沢・山井・柳川検校らによって受けつがれた。本手組と破手組とがあり、破手組は本手組の手(三味線)の型を破ったもので、複雑で変わった手が使われている。のちには教習の階梯上、表・裏・中・奥に四分類し、表組・裏組などというが、それぞれ許し免状を与えたので、表許し、奥許しなどともいう。流派によって同名の曲も歌詞や曲調に違いがある。京都を中心とした柳川流のあと、大坂野川流が生まれ、両流が残ったが、現在は野川流だけが全曲を伝えている。さみせんくみうた。

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改訂新版 世界大百科事典 「三味線組歌」の意味・わかりやすい解説

三味線組歌 (しゃみせんくみうた)

三味線音楽の一種目。三味線が日本に移入したとき,それを改良した盲人音楽家によって創作された。三味線本手ともいう。歌詞は,それ以前あるいはその当時の小編の流行歌謡を適宜組み合わせた1曲として,これに三味線を結合させたものである。琉球三線さんしん)の旋律を模倣して生まれた可能性もある独自の類型的な三味線の旋律が先に存在していて,これに詞章を当てはめたと思われる。このため詞章のほうにさまざまな間投語を挿入したり,反復・結合を行ったりしていて,歌意が通じにくいものもある。その最初の曲である《琉球組》をはじめ,最も古く成立したいくつかの楽曲の作曲者は,三味線そのものの改良者とも伝えられる石村検校ないしは虎沢検校と擬せられている。

 盲人音楽家の間に,芸術的伝承曲として伝えられるにいたって,さまざまな増補編曲が行われるようになった。京都において,その伝承体系を確立させたのは柳川検校であって,みずから破手組その他の楽曲の作曲も行い,それ以前の古曲のみを本手組と称した。柳川の体系づけたものは,その後の伝承において,柳川流と称せられ,その詞章は《松の葉》(1703)に収録された。

 一方,大坂において異なる伝承体系も生まれ,その確立者は野川検校とされ,その後の伝承を野川流と称した。盲人音楽家の扱う三味線歌曲を地歌と称するようになるとともに,三味線組歌は,地歌音楽家の職業的伝承上の規範曲とされ,地歌そのものの流儀名の一つとして,野川流ともいうようになった。柳川流の三味線組歌は6曲しか遺存していないのに対し,野川流のそれは,全32曲が全曲現在に伝えられている。
地歌
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三味線組歌」の意味・わかりやすい解説

三味線組歌
しゃみせんくみうた

三味線本手」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の三味線組歌の言及

【組歌】より

…八橋検校以降の箏組歌は4句からなる歌を四つから七つ組み合わせて1曲とし,各歌の拍数は等しく,類型的な楽曲構造を有する。三味線組歌は本来独立していた種々の歌を組み合わせたもの。組歌は箏,三味線ともに伝承教習上の規範曲として重要視され,本手組,破手組あるいは,表,裏,中,奥などの段階に分類されるようになった。…

【地歌】より


[歴史と分類]
 三味線音楽の芸術化につとめたのは,16世紀半ばから17世紀半ばにかけて,三味線そのものの伝来・改良に関与した盲人音楽家たちであったが,彼らが作曲した最古典曲は,前代または当時流行していた小編の歌曲(小歌)を組み合わせて,これに三味線を結びつけて芸術歌曲化したものであった。これを,〈三味線本手〉ないし〈本手〉と称したが,のちには〈三味線組歌〉などとも称した。その中でも最古典曲は,石村検校作曲とされる《琉球組》であるが,虎沢検校を経て柳川検校に至るまでに,増補・整理された。…

※「三味線組歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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