三善為康(読み)みよしためやす

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三善為康」の意味・わかりやすい解説

三善為康
みよしためやす
(1049―1139)

平安時代文人本姓越中(えっちゅう)国(富山県)の射水(いみず)氏。算博士三善為長に師事し、算道に通じるとともに紀伝道を学ぶ。52歳に至ってようやく少内記に推挙され、のち算博士、諸陵頭を兼任し、正五位上に至る。詩文および公私文書を分類編集した『朝野群載(ちょうやぐんさい)』30巻(現存21巻)のほか『童蒙頌韻(どうもうしょういん)』『掌中歴(しょうちゅうれき)』『続千字文』などの編著があり、また『拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)』『後拾遺往生伝』各三巻、『六波羅蜜寺縁起(ろくはらみつじえんぎ)』『世俗往生決疑(けつぎ)』(逸書)、金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)の『験記(げんき)』(逸書)などの著書があり、信仰者としての一面を示している。藤原宗友(むねとも)の『本朝新修往生伝』には、その略伝とともに信仰者としての彼の行業が記されている。

[柳井 滋]

『木本好信著『平安朝日記と逸文の研究――日記逸文にあらわれたる平安公卿の世界』(1987・桜楓社)』『小原仁著『文人貴族の系譜』(1987・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「三善為康」の意味・わかりやすい解説

三善為康 (みよしためやす)
生没年:1049-1139(永承4-保延5)

平安後期の文人官吏。本姓は越中国の射水氏。上京し算博士の三善為長に師事,その養子となった。少内記,算博士,諸陵頭などを歴任している。数多い著作中,《童蒙頌韻》《続千字文》《掌中歴》および《朝野群載》(諸書から模範的な詩文や文書を抄出分類したもの)は学識の広さを示すに十分である。また《拾遺往生伝》《後拾遺往生伝》も仏教への関心の深さを物語っている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「三善為康」の解説

三善為康

没年:保延5.8.4(1139.8.29)
生年:永承4(1049)
平安後期の文人官僚。越中国(富山県)射水郡出身で,本姓は射水。治暦3(1067)年入京,算博士三善為長の弟子となり,三善姓を称した。算道,紀伝道を学び,式部省試及第を目指したが果たせず,晩年転身して少内記となる。その労により叙爵。堀河天皇の代に算博士,のちに諸陵頭を兼帯。永久4(1116)年,項目別文例集『朝野群載』を編纂,最晩年まで補訂作業を継続する。そのほか百科全書的書物『懐中歴』『掌中歴』(その子行康の著とする異説あり)および『拾遺往生伝』正続などの著作がある。<参考文献>弥永貞三「『朝野群載』解題」(『国史大系書目解題』上)

(上杉和彦)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三善為康」の解説

三善為康
みよしのためやす

1049~1139.8.4

平安後期の学者・官人。越中国射水(いみず)郡の射水氏の出自だったが,平安京にのぼって算博士三善為長の弟子となり,三善朝臣(あそん)と改氏姓。紀伝道からの省試をへての出身ははたせず,少内記・算博士・尾張介・越後介・諸陵頭・越前権介を歴任し,正五位下に昇る。算博士として活躍したが,文人・浄土信仰者としての活動が有名で,「朝野群載」「掌中歴」「童蒙頌韻(どうもうしょういん)」「続千字文」「拾遺往生伝」「後拾遺往生伝」などを著し,自身も「本朝新修往生伝」に往生人として描かれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三善為康」の解説

三善為康 みよし-ためやす

1049-1139 平安時代後期の官吏。
永承4年生まれ。越中(富山県)の豪族射水(いみず)氏の出身。京都で算博士三善為長の養子となり,紀伝道もまなぶ。省試に及第せず,晩年にようやく算博士,正五位下となった。文人,また熱心な浄土信仰者として知られ,編著に「朝野(ちょうや)群載」「童蒙頌韻(どうもうしょういん)」「拾遺往生伝」などがある。保延(ほうえん)5年8月4日死去。91歳。
【格言など】身は俗塵にありて,心は仏界に帰す(「拾遺往生伝」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三善為康」の意味・わかりやすい解説

三善為康
みよしためやす

[生]永承4(1049)
[没]保延5(1139).8.4.
平安時代後期の学者。越中国射水 (いみず) 郡の出で,本姓は射水氏。治暦2 (1066) 年上京し,三善為長に師事して算道を学び,堀河天皇のとき,算博士に任じて,三善姓を賜わった。平安時代の詩文,宣旨,書札などを分類編纂した『朝野群載』を永久4 (1116) 年に完成した。また浄土教関係の書『拾遺往生伝』『世俗決疑集』なども著わしている。

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世界大百科事典(旧版)内の三善為康の言及

【後拾遺往生伝】より

三善為康撰。《拾遺往生伝》の完成後ひきつづいてその遺漏を集めたもので,為康の死亡する1139年(保延5)までの間,増補され書きつがれた。…

【拾遺往生伝】より

…《続本朝往生伝》の後をうけ,往生者の行業を漢文体で記したもの。三善為康撰。上中下あわせて95人の伝を収める。…

【掌中歴】より

…天文,歳時,地理などの事物を乾象歴,歳時歴,国堺歴などの部門に分類して解説を加えたもの。編者は算博士三善為康。もと4巻から成り,現在は1巻を伝えるのみだが,失われた巻の内容は,《掌中歴》《懐中歴》などをもとに編纂された《二中歴》に施された注記によって推定できる場合が少なくない。…

【朝野群載】より

…平安時代中・後期の詩文,書札を収録したもの。算博士三善為康の編。自序によれば永久4年(1116)に編したとあり,一応の編集が終わったと考えられるが,その後の増補があり,長承1年(1132)のものを含むので,最終的には保延年間(1135‐41)の成立と考えられる。…

【三善氏】より

…この氏には二つの流れがある。(1)百済系 《新撰姓氏録》に〈錦部連は三善宿禰と同祖,百済王速古大王の後なり〉とみえる。その渡来年代はわからないが,錦部連の一部が三善宿禰への改氏改姓を許されたのは805年(延暦24)前後で,当時,後宮女官に姉継,弟姉という人物がいた。ついで三善宿禰に朝臣の姓を賜ったのは903年(延喜3)ころで,当時,文章博士兼大学頭の清行などが活躍していた。清行の子は,文江と文明が文人官吏となり,浄蔵日蔵が出家しているが,それ以後直系の子孫に著名人は見えない。…

※「三善為康」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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