三国街道(読み)みくにかいどう

精選版 日本国語大辞典 「三国街道」の意味・読み・例文・類語

みくに‐かいどう ‥カイダウ【三国街道】

越後国新潟県)と上野国群馬県)を結ぶ街道。江戸時代脇往還として重きをなした。中山道高崎宿から三国峠を越えて長岡宿に至り、さらに寺泊に達して船で佐渡に渡った。三国通。三国路。

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デジタル大辞泉 「三国街道」の意味・読み・例文・類語

みくに‐かいどう〔‐カイダウ〕【三国街道】

関東越後を結ぶ江戸時代からの街道。ほぼ現在の国道17号にあたる。中山道の群馬県高崎から分かれ、三国峠を越えて長岡に至る。

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日本歴史地名大系 「三国街道」の解説

三国街道
みくにかいどう

江戸時代、上州と越後を結んだ主要道で、三国通・三国道、また佐渡へ通ずるので佐渡道などとも称した。上州と越後の境三国峠を越えるためこの称がある(利根郡新治村の→三国峠道中奉行の作成した「道中方覚書」は「江戸より佐州中山道三国通り」とし固定した段階の道筋を次のように記す。中山道高崎宿―(一二里半)金古かねこ宿(現群馬郡群馬町)(二里)渋川宿―(二八丁)金井かない宿(現渋川市)(一八丁)北牧きたもく宿(現北群馬郡子持村)(二〇丁)横堀よこぼり宿(現同上)(三里一三丁)中山なかやま宿(現吾妻郡高山村)(二里)塚原つかばら宿(現利根郡月夜野町)(一里一五丁)布施ふせ宿―(一里)須川すかわ宿―(二里一二丁)永井ながい宿(以上現新治村)。このあと三国峠を越え越後に入る。越後の第一宿は浅貝あさかい(現新潟県南魚沼郡湯沢町)で、以降湯沢ゆざわ(現同上)塩沢しおざわ(現同郡塩沢町)六日町むいかまち(現同郡六日町)―六日町(現長岡市)を経て長岡城下に達する。高崎から長岡まで約五〇里。長岡からは与板よいた(現三島郡与板町)を経て出雲崎いずもざき(現同郡出雲崎町)へ至り、ここから佐渡へ船で渡った。

この街道が整備されたのは近世に入ってからだが、三国峠の利用は古く、群馬県と新潟県魚野うおの川流域にある古墳の類似性から、五世紀頃から交通があったと推定されている。また三国峠は三坂みさか峠ともよばれており、古くに都へ通ずる官道の峠を「みさか」(御坂・三坂)とよんだとする説に従えば、大和朝廷の時代から重要な役割を担っていたとみることができる。

三国街道
みくにかいどう

三国通ともよばれ、三国峠(現南魚沼郡湯沢町)を越えて関東へ直通する。近世の脇往還、佐州三路の一つ。越後国内諸藩の参勤交代路であり、佐渡産出の金の輸送路とも決められていた。中山なかせん高崎たかさき宿(現群馬県高崎市)から利根とね川筋をさかのぼり、渋川しぶかわ(現同県渋川市)横堀よこぼり(現同県北群馬郡子持村)今宿いまじゆく(現同県利根郡新治村)から須川すかわ(現同上)の谷に入り、さるきよう関所を経て永井ながい宿(現同上)まで上野側一三宿、さらに三国峠を越えて越後国に入り、浅貝あさかい二居ふたい三俣みつまた(現湯沢町)山中さんちゆう三宿の峠越えで魚野うおの川の谷に出、湯沢ゆざわ(現同上)せき塩沢しおざわ(現南魚沼郡塩沢町)六日町むいかまち五日町いつかまち(現同郡六日町)浦佐うらさ(現同郡大和町)堀之内ほりのうち(現北魚沼郡堀之内町)川口かわぐち(現同郡川口町)妙見みようけん六日市むいかいち(現長岡市)を経て長岡城下に達する一三宿を通る。長岡から高崎までは約四七里、江戸までは約七二里、七日間の行程であった。長岡からは与板よいた城下(現三島郡与板町)を経て寺泊てらどまり(現同郡寺泊町)出雲崎いずもざき(現同郡出雲崎町)の湊から船で佐渡へ渡った。三国通の発祥は、上野側との考古遺跡の特徴などからは五世紀頃にさかのぼるとみられる。長享二年(一四八八)越後を旅した僧万里集九の「梅花無尽蔵」には九月二日「三国之嶽」に登り、「此夕宿二井」とみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三国街道」の意味・わかりやすい解説

三国街道
みくにかいどう

上州(群馬県)高崎で中山道(なかせんどう)から分かれ、三国峠を越えて越後(えちご)(新潟県)に入り、佐渡(さど)への港である出雲崎(いずもざき)に至る街道。この間、上州に11、越後に14の宿(しゅく)駅があった。越後の諸侯の参勤交代や佐渡奉行(ぶぎょう)の往来があり、佐渡金山に送られる無宿人足、越後から関東への行商人、上州草津への入湯者なども通った。越後の米もこの街道で上州に運ばれ、永井宿には米市が立った。豪雪地帯なので冬季の通行の苦難は格別であった。三国峠付近では冬季は馬を使えず人足に頼り、夏季の5、6倍の人数を必要とした。南牧と猿ヶ京(さるがきょう)には関所が置かれた。三国峠には三国権現(ごんげん)があって越後、信濃(しなの)、上野(こうずけ)三国の一宮(いちのみや)を祀(まつ)る。いわゆる「境の明神」である。なお、三国街道はほぼ国道17号に相当する。

中島義一

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三国街道」の意味・わかりやすい解説

三国街道
みくにかいどう

新潟県と群馬県を結んだ街道。江戸時代は主要な脇往還の一つで,高崎宿で中山道から分岐し,三国峠 (1244m) を越え,長岡城下に達した。参勤交代路で,往来は激しく,多くの宿場町があった。三国山脈中には山中難所越えのため,浅貝,二居,三俣の伝馬 (てんま) 稼ぎのみを目的とした3宿 (三国三宿) がおかれた。現在は国道 17号線の一部となり,1961年三国トンネルの完成により,太平洋側と日本海側を結ぶ大動脈として重要な役割を果している。

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改訂新版 世界大百科事典 「三国街道」の意味・わかりやすい解説

三国街道 (みくにかいどう)

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世界大百科事典(旧版)内の三国街道の言及

【佐渡路】より

…その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要な財源であったので,大量の金銀輸送,幕府役人等の通行のため重視される街道となった。佐渡路には中山道追分宿から分かれて出雲崎(いずもざき)に出る北国街道,中山道高崎宿から分かれて寺泊(てらどまり)に出る三国街道,奥州道中白河宿で分かれて新潟に出る会津街道の3道があって,出雲崎,寺泊,新潟が渡海場に当てられていた。佐渡御金荷は小木港から出雲崎に海上輸送されたあと北国街道を陸送されたので,北国街道は江戸初期に合宿継や寄馬制など特別な継立体制が確立した。…

【脇街道】より

伊勢路は東海道の四日市から分かれ,神戸より山田までの7宿を経て伊勢神宮に達する街道,伊賀越道中は東海道の関から奈良にいたる街道である。佐渡路は江戸より佐渡にいたる街道で,これには奥州道中の白河から越後の寺泊に出る会津通,中山道の高崎から分かれて三国峠を越えて越後の出雲崎に出る三国街道,中山道追分宿で分かれて出雲崎までいく北国街道,の3道がある。北国路は,中山道の関ヶ原から加賀の立花(またはさらに延長して新潟経由,陸奥の三厩(みんまや)に達する)街道であるが,仙台・松前道は奥州道中の白川より延長して郡山,仙台,盛岡を経て箱館にいたる街道であり,羽州街道は仙台道の桑折(こおり)から山形,新庄,湯沢などを経由して青森湊に達する街道で,秋田道ともいった。…

※「三国街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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