三夷寺(読み)さんいじ(英語表記)San-yi-si; San-i-ssǔ

精選版 日本国語大辞典 「三夷寺」の意味・読み・例文・類語

さんい‐じ【三夷寺】

〘名〙 中国仏教徒が、祆教(けんきょう)ゾロアスター教)、摩尼教(マニ教)、景教(ネストリウス派キリスト教)の三つ異教の寺に対して用いた呼称

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三夷寺」の意味・わかりやすい解説

三夷寺
さんいじ
San-yi-si; San-i-ssǔ

中国,唐代に西方から伝来した祆教 (けんきょう。ゾロアスター教) ,マニ教景教 (ネストリウス派キリスト教) の寺院総称。西アジアからイラン系諸民族の隊商シルクロード沿いに東来するにつれ,彼らの宗教建造物も長安をはじめ在留外人の多い都会につくられ,異国文化の花を咲かせた。祆祠波斯寺 (はしじ) ,摩尼祠は大雲光明寺,景祠は大秦寺などとも呼ばれたが,9世紀中頃の会昌の廃仏の際多く破壊された。

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世界大百科事典(旧版)内の三夷寺の言及

【長安】より

…これら寺院の創設や維持の主体になったのは皇族や貴族たちであったが,唐代,経師,覆講師,邑師,説法師,遊行僧などがあらわれ,民衆の教化,救貧,救病などの社会事業にのり出した。また唐代,景教(ネストリウス派),祆教(ゾロアスター教),摩尼(マニ)教なども入り,それら三つの宗教の寺院は三夷寺と称された。これらは仏寺や道観に比べると少なかったが,長安の国際色を物語るものであった。…

【マニ教】より

…【上岡 弘二】
[中国]
 マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および祆(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回紇)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。…

※「三夷寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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