三島町(読み)みしままち

日本歴史地名大系 「三島町」の解説

三島町
みしままち

[現在地名]三島市出町でちよう大社町たいしやちよう大宮町おおみやちよう一丁目・同三丁目・中央町ちゆうおうちよう北田町きたたまち東本町ひがしほんちよう一―二丁目・本町ほんちよう芝本町しばほんちよう泉町いずみちよう一番町いちばんちよう広小路町ひろこうじちよう西本町にしほんちよう栄町さかえちよう加屋町かやまち清住町きよずみちよう三好町みよしちよう西若町にしわかちよう緑町みどりちよう南町みなみちよう寿町ことぶきちよう南本町みなみほんちよう中田町なかたまち南田町みなみたまち東町ひがしちよう南二日町みなみふつかまち文教町ぶんきようちよう一―二丁目・加茂川町かもがわちよう加茂かも富田町とみたまち若松町わかまつちよう

現三島市の中央部西寄りに位置する近世の町。三島宿とも。君沢くんたく郡に属し、北は幸原こうばら村、東は川原かわら村、南はなか村、西は駿河国駿東すんとう新宿しんしゆく(現清水町)など。古来三嶋社(三嶋大社)門前町として、江戸時代は東海道の宿駅として栄えた。文禄三年(一五九四)検地を受けている(同年七月一一日「君沢郡三嶋之郷検地帳」勝俣家文書)。江戸時代を通じて幕府領で、三島代官支配から宝暦八年(一七五八)韮山代官支配に替わった(韮山町史)。天保郷帳によると高二千五八二石余。

〔町の成立と発展〕

文禄年間頃には成立していたと伝える伝馬てんま町・久保くぼ(窪)町・小中島こなかじま町・大中島おおなかじま町のいわゆる親町のほか、寛文八年(一六六八)の拝借米渡帳(三島市誌)によるとかや町・新宿町・六反田ろくたんだ町・長谷ちようや町・しん町・しば町・みや町・北金谷きたかなや町・宮倉みやぐら町・いちはら町・二日町・竹林寺ちくりんじ町・田町・うら町・蓮行寺れんぎようじ町・畑中はたけなか町・うしろ町が加わり二一町になった。

三島町
みしままち

面積:九〇・八三平方キロ

郡の中部に位置し、の岳・岩淵いわぶち山・志津倉しづくら山など町南東部の連山によって河沼郡柳津やないづ町と境界を画しているが、滝谷たきや川流域のこの地域はかつて大沼郡西山にしやま村とよばれた所で、昭和三〇年(一九五五)に柳津町と合併して河沼郡となった。昭和しようわ村とは町の南部の志津倉山・俎倉まないたくら山で境を接し、金山かねやま町とは町の西部の赤松あかまつ山・高森たかもり山・三坂みさか山によって境界を画している。町の北部を只見ただみ川が東流し、南北に開けた谷地を大谷おおたに川が北流して宮下みやした地区で只見川に合する。また町の最東端を滝谷川が北流して、柳津町郷戸ごうど地内で只見川に合流する。これらの大小河川によって開かれた峡谷を縫って国道二五二号と地方道宮下―小林こばやし線が走り、旧街道のうち、野沢のざわ宿(現西会津町)西方にしかた宿をつなぐ西方街道(御蔵入街道)は国道四〇〇号に昇格し、若松城下軽井沢かるいざわ銀山・砂子原すなこはら(現柳津町)・大谷の宿駅を結んだ銀山ぎんざん街道は、地方主要道三島―若松線となり、宮下村から沼沢ぬまざわ宿(現金山町)へつないだ伊北いほう街道は県道宮下―小栗山こぐりやま線と改称されて、それぞれ改良整備中で、国道四〇〇号にはすぎ峠トンネル、宮下―小林線には美女びじよ峠トンネルの掘削も計画され、平成四年(一九九二)開通した磐越自動車道を活用する高速交通体系づくりが模索されている。

只見川流域には標式的な河岸段丘群が形成され、早くから生活が営まれた。

三島町
みしままち

面積:三六・九三平方キロ

東・南は長岡市、西は一部分刈羽郡西山にしやま町に接し、大方は出雲崎いずもざき町、北は和島わしま村・与板よいた町。町域西部は標高三四五メートルの小木城おぎじよう山を中心とする丘陵性の小木城山脈が南北に延び、東に緩傾斜をなして町域東寄りと東辺を各々北流するくろ川とその支流菖蒲しようぶ川の形成する沖積平地に没する。この東部の沖積平地は腐植質を含んで稲作に良好な土質をなす。丘陵東麓沿いには県道与板―関原線が南北に縦貫し、剣峰けんがみね峠越で出雲崎と長岡を結ぶ東西の道が脇野わきの町で交差する。

三島町
みしまちよう

[現在地名]伊予市三島町

郡中ぐんちゆう三町の一。もとは米湊こみなと村の一部であったが、江戸時代後半に分離独立して城下町に準ずる取扱を受けた。

古くは小笹の茂る原野で人家まばらな寂しい土地であった。寛永一二年(一六三五)の替地後大洲藩領となった。寛政一二年(一八〇〇)の「予州大洲領御替地古今集」によると、藩主加藤泰興がここで鷹野をした際、三島にある大松の下で白鷺に出会い、鷹は行方知れずになったため代官高橋作兵衛が天神宮に祈願したところ、鷹はほどなく藩主のこぶしに戻ってきたので、寛永一六年に天神市てんじんいちの祭礼を許され、しだいに町の形となり町号を三島町とし御免地となったとある。

三島町
みしままち

[現在地名]岩内郡岩内町字御崎みさき

明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街のうちで、堀江ほりえ町の西に位置する。明治九年の大小区画沿革表に三島町とある。同二一年の戸数八五・人口三二〇、同二四年の宅地は一町二反余(岩内古宇二郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三島町」の意味・わかりやすい解説

三島〔町〕
みしま

福島県西部,只見川中流域にある山間の町。 1955年宮下,西方の2村が合体して三島村となり,61年町制。大部分が山地で,農林業が主。中心地区の宮下は沼田街道沿いの宿駅として発展。古くから会津桐の生産地として知られ,桐加工品や民具が造られる。5月には全国でも珍しいキリの花見ができる。会津バイオ植栽試験地,只見川に宮下ダムがある。只見柳津県立自然公園に属する。面積 90.81km2。人口 1452(2020)。

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事典 日本の地域遺産 「三島町」の解説

三島町

(福島県大沼郡三島町)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
三島町は大部分を山林が占め、古くから「会津桐」の産地として知られる。雪国の手仕事を再生した生活工芸は、「奥会津編み組細工」として国の伝統的工芸品に指定されている。民俗行事も盛んで、「サイノカミ」は小正月の火祭りの伝統を受け継ぎ、国の重要無形民俗文化財に指定されている

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三島町の言及

【摂津[市]】より

…大阪府北部,大阪市の北東部に隣接する市。1966年三島町が市制施行して摂津市と改称。人口8万7330(1995)。…

※「三島町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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