三浦樗良(読み)ミウラチョラ

デジタル大辞泉 「三浦樗良」の意味・読み・例文・類語

みうら‐ちょら【三浦樗良】

[1729~1780]江戸中期の俳人志摩鳥羽の人。通称勘兵衛。別号、無為庵など。伊勢山田、のち京都に住む。蕪村らと親交を結び、中興俳壇の代表的俳人となった。編著我庵わがいお」、句集樗良発句集」。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「三浦樗良」の意味・読み・例文・類語

みうら‐ちょら【三浦樗良】

(江戸中期の俳人) ⇒ちょら(樗良)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「三浦樗良」の解説

三浦樗良

没年:安永9.11.16(1780.12.11)
生年享保14(1729)
江戸中期の俳人。志摩国(三重県)鳥羽に生まれ,少年時代に父と共に伊勢国山田に移住した。成長するにおよんで俳諧師の道を歩むが,後半生の20年間の大半を旅のうちに過ごした。一時京都にも住み与謝蕪村と親交を結んでいる。純情多感な性格であったが,それだけに堅実な生活を営む能力を欠いており,一時は貧窮のうちに妻を伴って放浪生活を送った。平穏な生涯ではなかったが,句には平淡な抒情をたたえた佳吟が多く,蕉風中興期を代表する俳人のひとりに数えられている。<参考文献>清水孝之『追跡・三浦樗良』

(田中善信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦樗良」の解説

三浦樗良 みうら-ちょら

1729-1780 江戸時代中期の俳人。
享保(きょうほう)14年生まれ。伊勢(いせ)(三重県)山田にすむ。紀伊(きい)長島の百雄にまなび,南紀,江戸,北越,京都など各地を遍歴。蕪村(ぶそん)一派のほか交友もひろく,天明の中興期俳壇で活躍した。俳画でも知られる。安永9年11月16日死去。52歳。志摩(三重県)出身。名は元克。字(あざな)は冬卿。通称は勘兵衛。別号に無為庵。法名は玄仲。編著に「我庵(わがいお)」「年の尾」など。
格言など】秋萩のうつろひて風人を吹く(「続明烏」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦樗良」の意味・わかりやすい解説

三浦樗良
みうらちょら

[生]享保14(1729).鳥羽
[没]安永9(1780).11.16. 伊勢山田
江戸時代中期の俳人。名,元克。字,冬卿。通称,勘兵衛。別号,一呆廬,無為庵,二股庵など。蕪村,青蘿,闌更らと親交があり,中興期伊勢俳壇の中心人物。一時伊勢大島,紀伊の新鹿に住み,北陸地方にも勢力圏があった。平明な調子と素朴な風格を反映して独自の俳風を示している。編著『白頭鴉 (しらががらす) 』 (1759) ,『我庵 (わがいお) 』 (67) ,『石をあるじ』 (71) など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦樗良」の意味・わかりやすい解説

三浦樗良
みうらちょら

樗良

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の三浦樗良の言及

【樗良】より

…江戸中期の俳人。姓は三浦,名は元克。別に無為庵などと号する。志摩国鳥羽の人。はじめ貞門系の百雄に学んだが,次第に伊勢派に近づき,伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。1759年(宝暦9)南紀に旅して《白頭鴉(しらががらす)》を編み,60年加賀,61年は再び南紀に在って《ふたまた川》を編した。62年には伊勢山田に庵を結び,門下を擁して《我庵》(1767)に自風の確立を示す。既白,闌更らと往来し合い,71年(明和8)にも信濃から加越を巡って《石をあるじ》を編み,翌年は播磨に青蘿を訪ねた。…

※「三浦樗良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android