上京臨潢府(読み)じょうけいりんこうふ(英語表記)Shang-jing Lin-huang-fu; Shang-ching Lin-huang-fu

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上京臨潢府」の意味・わかりやすい解説

上京臨潢府
じょうけいりんこうふ
Shang-jing Lin-huang-fu; Shang-ching Lin-huang-fu

中国,の首都。上京,臨 潢府ともいう。中京大定府,東京 (とうけい) 遼陽府,南京析津府,西京大同府とともに遼の五京の一つ。現在の遼寧省昭烏達 (ジョウウダ) 盟巴林 (バリン) 左翼旗林東 (リントン) 鎮の南方 1kmに土城址が現存。太祖耶律阿保機 (やりつあぼき) は早くからこの地を本拠とし,神冊3 (918) 年皇都と定め,中国風の都城造営。太宗は城郭を拡大し,会同1 (938) 年上京臨 潢府と改称。都城は皇城 (北城) と漢城 (南城) から成り,城内には大内裏,寺院,道観が並び,漢民族やウイグル族が多数居住していた。

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世界大百科事典(旧版)内の上京臨潢府の言及

【遼】より


[文化]
 文化のうえでも契丹族を中心とした遊牧民族文化と漢民族のもたらした伝統的中国文化とが入りまじった遼朝は固有の遊牧民族文化を保持するように努め,歴代の皇帝・貴族の多くは中国風の国都にとどまらず春夏秋冬にしたがって各地に行在所(捺鉢(ナパ))を設け狩猟や漁労生活を送り,服装も胡帽・胡服を着け,肉食,乳製品を多くとり,宗教も固有のシャマニズムを重んじた。他方,中国文化の受容も進み,すでに太祖時代に漢城の一つが皇都上京臨潢府(じようけいりんこうふ)(現,内モンゴル自治区巴林左旗)として造営されたのをはじめ,ワールインマンハに聖宗・興宗・道宗3代の皇帝陵(慶陵)が中国の陵寝様式によって造営された。また仏教の導入による上・下華厳寺(山西省大同市)などの寺院建築や契丹大蔵経の刊行,慶陵や寺院の壁画,彫刻などに見られる技法も唐の影響を強く受けたものである。…

※「上京臨潢府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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