上山藩(読み)かみのやまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上山藩」の意味・わかりやすい解説

上山藩
かみのやまはん

出羽(でわ)国(山形県村山地方南部を領有した藩。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)上山城主は山形藩最上(もがみ)氏の重臣であったが、1622年(元和8)最上氏の改易により、上山には譜代(ふだい)大名能見(のみ)松平重忠(しげただ)4万石が封ぜられ、1626年(寛永3)外様(とざま)大名蒲生忠知(がもうただとも)が在封、翌年より山形藩鳥居氏の城代管理、1628年に土岐(とき)氏が入部し、頼行(よりゆき)・頼殷(よりたか)と2代65年間、上山藩を統治した。一時幕領となったあと、1692年(元禄5)金森頼時(よりとき)(外様)が在封、1697年、譜代の藤井松平氏3万石が入部し、以来幕末まで続いた。藩主は、信通(のぶみち)、長恒(ながつね)、信将(のぶまさ)、信亨(のぶあきら)、信古(のぶふる)、信愛(のぶさね)、信行(のぶゆき)、信宝(のぶたか)、信庸(のぶつね)、信安(のぶやす)。上山藩領は城付領としての上郷1万7000石余と須川(すがわ)、寒河江(さがえ)川下流域に中・下郷1万3000石余が散在したが、1814年(文化11)、中・下郷分は越後(えちご)国(新潟県)三島・刈羽(かりは)2郡の一部と替地になっている。18世紀のなかば藩財政の窮乏が深まり、農村荒廃は増大した。1747年(延享4)、年貢納入の強化や流通統制に対して惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)が起こった。天明(てんめい)・寛政(かんせい)年間(1781~1801)には藩政改革をめぐり政争を繰り返したが、1809年(文化6)藩校天輔(てんぽ)館(のち明新館)が設置されている。幕末には中老金子与三郎が「社倉」や教導方を設置し、兵制改革などの藩政改革を実施したことでも有名である。1871年(明治4)廃藩置県により、上山県を経て山形県に編入された。

[横山昭男]


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藩名・旧国名がわかる事典 「上山藩」の解説

かみのやまはん【上山藩】

江戸時代出羽(でわ)国村山郡上山(現、山形県上山市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩(一時外様(とざま)藩)。藩校は天輔館(てんぽかん)(のち明新館(めいしんかん)と改称)。山形県の大半を領有していた最上(もがみ)氏が1622年(元和(げんな)8)に改易(かいえき)され、当地には譜代大名で遠江(とおとうみ)国横須賀藩の藩主松平(能見(のみ))重忠(しげただ)が4万石で入封(にゅうほう)、上山藩が成立した。その後、外様大名の入封、幕府領などを経て、1697年(元禄10)に譜代で備中(びっちゅう)国 庭瀬(にわせ)藩の藩主松平(藤井)信通(のぶみち)が3万石で入封、以後は明治維新まで松平氏10代が続いた。中期以後は農村が荒廃し、藩財政も窮乏、大規模な一揆も起きた。天明(てんめい)~寛政(かんせい)年間(1781~1801年)には藩政改革を巡って藩主と側近の間で政争が繰り返された。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが降伏。1871年(明治4)の廃藩置県により、上山県を経て山形県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上山藩」の意味・わかりやすい解説

上山藩
かみのやまはん

江戸時代,出羽国村山郡上山地方 (山形県) を領有した藩。元和7 (1621) 年最上氏一族上山氏改易ののち,松平 (能見) 氏3万石,蒲生氏4万石,土岐氏2万 5000石,金森氏3万 7000石を経て,元禄 10 (97) 年松平 (藤井) 信通が備中 (岡山県) 庭瀬より入封,3万石を領し 10代在封。明治1 (1868) 年 3000石減封,廃藩置県にいたる。松平 (藤井) 氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「上山藩」の解説

上山藩

出羽国、上山(現:山形県上山市)を本拠地とし、村山地方の南部を領有した藩。

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