上杉憲顕(読み)うえすぎのりあき

精選版 日本国語大辞典 「上杉憲顕」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりあき【上杉憲顕】

南北朝時代武将。越後・上野伊豆の守護。山内上杉氏の祖。憲房(一)の子。関東管領として足利基氏補佐。関東における上杉氏基礎を築く。伊豆に国清寺建立徳治元~応安元=正平二三年(一三〇六‐六八

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デジタル大辞泉 「上杉憲顕」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりあき〔うへすぎ‐〕【上杉憲顕】

[1306~1368]南北朝時代の武将。関東管領、伊豆・上野・越後守護。山内上杉氏の祖。観応かんのう擾乱じょうらん足利直義に与して高師冬こうのもろふゆを亡ぼすが、足利尊氏と戦って敗れた。

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百科事典マイペディア 「上杉憲顕」の意味・わかりやすい解説

上杉憲顕【うえすぎのりあき】

南北朝時代の武将。憲房(のりふさ)の子。山内(やまのうち)上杉氏の祖。建武政権崩壊後,足利尊氏足利直義(ただよし)に従って各地を転戦。1336年上野国守護となる。暦応年間(1338年−1342年)以後高師冬(こうのもろふゆ)とともに鎌倉府足利義詮(よしあきら),足利基氏(もとうじ)を補佐し,この間越後国守護も兼ねた。観応の擾乱(じょうらん)では直義方として,尊氏方の高師冬を鎌倉から追い,甲斐に滅ぼした。憲顕は直義を鎌倉に迎えたが,直義は尊氏に殺害され,憲顕も両国守護職を没収された。1362年憲顕は足利基氏によって再び両国守護となり,翌年には関東管領(かんとうかんれい)に任じられた。
→関連項目大泉荘白旗一揆

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉憲顕」の意味・わかりやすい解説

上杉憲顕
うえすぎのりあき
(1306―1368)

南北朝時代の武将。上杉憲房(のりふさ)の子で、山内(やまのうち)上杉氏をたてる。足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)と従兄弟(いとこ)にあたる関係で、足利氏のなかで重きをなし、南北朝内乱で活躍した。1336年(延元1・建武3)父憲房の戦死後家督を継ぎ、民部大輔(みんぶたいゆう)、上野(こうずけ)守護となり、ここを基盤に越後(えちご)、下野(しもつけ)方面に出動した。越後守護を兼帯し、家臣長尾(ながお)氏を上野、越後の守護代に据えた。50年(正平5・観応1)に足利尊氏・直義兄弟の争い(観応(かんのう)の擾乱(じょうらん))が起こると、直義党として武蔵野(むさしの)合戦などに奮闘したが敗北。その後、信濃(しなの)、越後、上野などの国境地帯で10年間、反尊氏方としてゲリラ的活動をしていた。尊氏の死後、鎌倉公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)は、61年(正平16・康安1)に関東管領(かんれい)畠山(はたけやま)国清を追放し、63年(正平18・貞治2)憲顕を迎えてその地位に据え、上野、越後の守護に復させた。以来、基氏、氏満(うじみつ)に仕えて鎌倉府の基礎をつくった。伊豆奈古屋(なこや)(静岡県伊豆の国市)に国清寺を建て、ここに葬られた。法名国清寺桂山道昌。

[峰岸純夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「上杉憲顕」の意味・わかりやすい解説

上杉憲顕 (うえすぎのりあき)
生没年:1306-68(徳治1-正平23・応安1)

南北朝時代の武将。憲房の子。山内上杉氏の祖。建武政権崩壊後,足利尊氏・直義に従って各地を転戦。関東に下向し1336年(延元1・建武3)上野国守護となる。暦応年間(1338-42)以後,高師冬とともに鎌倉府の足利義詮,ついで基氏を補佐して〈両管領〉と呼ばれ,鎌倉府の基礎を固める。この間に越後守護をも兼ねた。50年(正平5・観応1)観応の擾乱(じようらん)が勃発すると,直義方として,尊氏側に属す高師冬を鎌倉から追い,実子の上杉能憲をして甲斐須沢城に攻め殺させた。憲顕は直義を鎌倉に迎え,尊氏方と雌雄を決しようとしたが,尊氏によって直義は殺害され,憲顕も両守護職を没収された。10年にわたる雌伏ののち62年(正平17・貞治1)基氏は憲顕を迎えて,両守護に還補し,関東管領に再任した。これを不満とする宇都宮氏綱らが背いたがこれを平定。68年秋新田義宗らが蜂起したが,この鎮圧中に没した。
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朝日日本歴史人物事典 「上杉憲顕」の解説

上杉憲顕

没年:応安1/正平23.9.19(1368.10.31)
生年:徳治1(1306)
南北朝時代の武将。関東執事,関東管領。憲房の子。民部大輔。足利尊氏・直義兄弟の従兄弟に当たり,生年は直義と同じ。鎌倉に赴いて関東執事として尊氏の子義詮を補任した。また上野(群馬県)の守護となってその掌握に努め,さらに越後(新潟県)の守護として同国の南朝方を抑えた。鎌倉では憲顕と高師冬のふたりが執事として共に政務に当たっていたが,直義と親しい憲顕は,高師直の一族である師冬と対立を深め,観応2/正平6(1351)年ついに師冬を滅ぼして関東支配の実権を握り,さらに京から逃れた直義を鎌倉に迎え入れた。しかし尊氏の軍勢と戦い敗れて逃亡し,この後10年にわたり雌伏。康安1/正平16年ごろに鎌倉公方足利基氏に許されて,まもなく越後・上野守護に還補された。貞治2/正平18年には迎えられて鎌倉に入り,関東管領に任命された。その後宇都宮氏や平一揆の反乱を抑えて政権の安定に努めた。足利氏の関東支配の中心に位置し,関東上杉氏発展の基礎を築いた。

(山田邦明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉憲顕」の解説

上杉憲顕 うえすぎ-のりあき

1306-1368 鎌倉-南北朝時代の武将。
徳治(とくじ)元年生まれ。上杉憲房の子。山内上杉家の祖。建武(けんむ)3=延元元年上野(こうずけ)(群馬県)守護をつぐ。のち関東管領,越後(えちご)(新潟県)守護。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では高師冬(こうの-もろふゆ)をほろぼし,足利直義(ただよし)を鎌倉にむかえるが,足利尊氏に敗北。10年余たたかったのち,鎌倉公方の足利基氏の要請で管領,上野・越後の守護にもどった。応安元=正平(しょうへい)23年9月19日死去。63歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉憲顕」の意味・わかりやすい解説

上杉憲顕
うえすぎのりあき

[生]徳治1(1306)
[没]正平23=応安1(1368).9.19.
南北朝時代の武将。憲房の子。関東管領,武蔵,上野,越後守護。初代鎌倉公方足利基氏を補佐し,鎌倉府の基礎を固めた。伊豆の国清寺を建立。

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世界大百科事典(旧版)内の上杉憲顕の言及

【上杉氏】より

…足利氏との婚姻関係が生じ,とくに重房の孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだことから,一族は高(こう)氏と並ぶ重臣として遇された。南北朝内乱の初期には,上杉憲顕が足利直義の信任を得て幕府の関東支配の基礎をきずいた。観応の擾乱(じようらん)後の1363年(正平18∥貞治2)に憲顕がふたたび関東管領に就任して以降,上杉氏の一族が代々関東管領を世襲した。…

※「上杉憲顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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