上村松篁(読み)うえむらしょうこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上村松篁」の意味・わかりやすい解説

上村松篁
うえむらしょうこう
(1902―2001)

日本画家。本名信太郎。京都市に生まれる。母は上村松園。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校を卒業。在学中から西山翠嶂(すいしょう)に師事する。初め帝展、文展、第二次世界大戦後は日展に出品していたが、1948年(昭和23)創造美術の結成に加わり、新制作協会を経て、74年の創画会創立に参画した。59年にインドなどに研究旅行。67年日本芸術院賞受賞、83年文化功労者となり、84年文化勲章受章花鳥画を得意とし独特の清雅な表現が貴重とされる。『星五位(ほしごい)』『鴛鴦(おしどり)』『樹下幽禽(じゅかゆうきん)』などがよく知られている。長男淳之(あつし)(本名淳)も日本画家で、松園、松篁、淳之の上村家三代の作品を寄贈した松伯美術館(1994年開館)が奈良市内にある。

原田 実]

『『現代日本画全集8 上村松篁』(1981・集英社)』『『上村松篁近作画集』(1991・中央公論美術出版)』『『上村松篁画集 作品1921~1980』(1981・講談社)』『上村淳之監修『花鳥素描』(1990・毎日新聞社)』

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百科事典マイペディア 「上村松篁」の意味・わかりやすい解説

上村松篁【うえむらしょうこう】

日本画家。京都府出身。母は日本画家の上村松園(しょうえん)。本名信太郎。京都市立絵画専門学校(現,京都市立芸術大学)卒業。1947年に戦前官展前身とする第3回日展審査員を務めたが,旧態依然とした審査に失望し,日展を脱退。そして,1948年に日本画革新を目指して創造美術(創画会の前身)の結成に参加した。伝統的な円山四条派の写生を活かしながら,近代的な構成をもつ花鳥画を多く生み出した。京都市立美術大学(京都市立芸術大学の前身)教授を務めた。《星五位》で1958年度芸術選奨文部大臣賞,《樹下幽禽》で1966年度日本芸術院賞を受賞。1981年に日本芸術院会員となり,1983年には文化功労者,1984年に文化勲章を受章。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上村松篁」の意味・わかりやすい解説

上村松篁
うえむらしょうこう

[生]1902.11.4. 京都
[没]2001.3.11. 京都
日本画家。本名信太郎。母は美人画上村松園,長男も日本画家。 1930年京都市立絵画専門学校研究科修了。帝展で活躍,のち文展審査員,1948年に創造美術協会の結成に参加し,その後身の新制作協会の中心的画家となる。 1949~68年京都市立美術大学 (美術専門学校) 教授。 1974年創画会を結成。花鳥画を得意とし,主要作品は皇居新宮殿の屏風『日本の花』『日本の鳥』。 1981年日本芸術院会員,1983年文化功労者。 1984年文化勲章受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上村松篁」の解説

上村松篁 うえむら-しょうこう

1902-2001 大正-平成時代の日本画家。
明治35年11月4日生まれ。上村松園(しょうえん)の長男。西山翠嶂(すいしょう)に師事。大正10年帝展初入選。昭和23年山本丘人らと創造美術を結成。42年「樹下幽禽」で芸術院賞。49年創画会を結成。56年芸術院会員。59年文化勲章。母校京都市立芸大の教授。現代的感覚をいかした花鳥画をえがいた。平成13年3月11日死去。98歳。京都出身。本名は信太郎。作品に「蓮池群鴦図」「星五位」など。

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世界大百科事典(旧版)内の上村松篁の言及

【上村松園】より

…41年芸術院会員,48年には女性として最初の文化勲章を受けた。上村松篁(しようこう)はその子息。聞書きをつづったものに《青眉抄》がある。…

※「上村松篁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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