上条嘉門次(読み)カミジョウカモンジ

デジタル大辞泉 「上条嘉門次」の意味・読み・例文・類語

かみじょう‐かもんじ〔かみデウ‐〕【上条嘉門次】

[1847~1918]登山案内人。長野の生まれ。明治13年(1880)から上高地に住み、ウェストン小島烏水こじまうすい多くの人を槍ヶ岳穂高岳などに案内して、日本近代登山の発展に貢献した。

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精選版 日本国語大辞典 「上条嘉門次」の意味・読み・例文・類語

かみじょう‐かもんじ【上条嘉門次】

近代登山初期の山案内人。長野県出身。明治一三年(一八八〇)から上高地に住み、槍ケ岳、穂高岳を中心活躍。イギリス人ウェストン、小島烏水(うすい)槇有恒(まきありつね)らを案内した。弘化四~大正七年(一八四七‐一九一八

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朝日日本歴史人物事典 「上条嘉門次」の解説

上条嘉門次

没年:大正6.10.26(1917)
生年:弘化4.10.14(1847.11.21)
明治大正期の山案内人。日本アルプスの開拓者。信濃国(長野県)安曇村生まれ。安政の大獄(1858)の年,12歳で父と上高地に入山,明神池の間口4.5m,奥行き3.6mの嘉門次小屋を拠点に猟師,釣り師として過ごす。また内外の登山者や学者を槍・穂高連峰に案内し,「剛勇,冷静,親切,善良,礼節,一徹」などと評される。日本アルプスの海外への紹介者ウェストンとの前穂高岳登山(1893),鵜殿正雄との穂高・槍初縦走(1909)などが近代登山の幕開けとなった。大正6(1917)年,71歳で藤山愛一郎(のち外相)らと穂高を縦走したのが最後の登山だった。「山は猫のように歩け。石ひとつ落とすな」が口癖で,生涯無事故登山を貫いた。昭和34(1959)年,明神池に記念碑が建ち,嘉門次小屋は今も曾孫の輝夫の手で守られている。<参考文献>佐藤貢『アルプスの主・嘉門次』

(武田文男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上条嘉門次」の意味・わかりやすい解説

上条嘉門次
かみじょうかもんじ
(1847―1918)

山案内人。長野県出身。旧姓有馬で、1869年(明治2)島々(しましま)の上条孫次良の養子となる。80年上高地明神池畔に小屋を建てて住み、約40年間上高地の主として生涯を送り、ウェストン、槇有恒(まきありつね)、辻村(つじむら)伊助、藤山愛一郎など多くの人々の案内を勤めて槍(やり)・穂高連峰を中心に登山し、名案内人といわれた。1959年(昭和34)明神池畔に記念のレリーフが建てられた。佐藤貢著『アルプスの主嘉門次』の伝記がある。

[徳久球雄]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上条嘉門次」の解説

上条嘉門次 かみじょう-かもんじ

1847-1917 明治-大正時代の登山ガイド。
弘化(こうか)4年10月14日生まれ。上条孫次良の養子となる。安政5年(1858)父と上高地に入山,猟師,釣り師としてすごす。明治13年明神池畔に嘉門次小屋をたて,約40年間にわたりウェストン,小島烏水(うすい),槙有恒(まき-ありつね)らおおくの登山家を槍ケ岳や穂高連峰などに案内した。大正6年10月26日死去。71歳。信濃(しなの)(長野県)出身。旧姓は有馬。

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