上野原遺跡(読み)うえのはらいせき

日本歴史地名大系 「上野原遺跡」の解説

上野原遺跡
うえのはらいせき

[現在地名]国分市川内 胡摩ヶ迫

国分市街の南東部、鹿児島湾奥の姶良あいらカルデラ火口壁に続く標高約二六〇メートルの台地(通称上野原台地)上に位置する縄文時代早期を中心とした大遺跡。先端技術産業などの内陸工業団地である国分上野原テクノパークの建設に伴って発見された。発掘調査によって造成地の一工区・三―四工区から、時代および文化においてそれぞれ異なる特徴をもった遺跡が確認されている。一工区からは弥生時代の中期末に該当する竪穴住居跡五軒と掘立柱建物跡二棟からなる弥生集落が検出された。竪穴住居跡の形態は花弁形住居とよばれる南九州独特のタイプで、この種の遺構をもつ集落は平成七年度の調査で四工区へ広がっていることが確認されている。

三工区からは縄文時代から歴史時代までの遺跡が発見されているが、中心は約七千五〇〇年前の縄文時代早期後半の平栫式土器の時期で、県内では質・量ともに群を抜いている。

上野原遺跡
うえのはらいせき

[現在地名]中道町右左口 上野原

城山から張出す舌状台地のほぼ中央部の標高三五〇メートル付近に位置する。発掘調査は昭和四六年(一九七一)に実施され、縄文時代中期の住居跡二二軒、敷石遺構・配石遺構・土壙・埋甕などを検出している。縄文前期終末の住居跡一軒のほかは中期の住居跡と思われる。同五九年の発掘調査では住居跡一六軒、土壙九五基、単独埋甕五基、集石遺構一基、竪穴状遺構一基、溝状遺構四本が検出されている。

上野原遺跡
うえのはらいせき

[現在地名]三条市上野原 道上

五十嵐いからし川右岸、東山丘陵西側先端、標高二五メートルに位置する。縄文時代晩期の集落跡と推定され、東西五〇メートル・南北三〇メートルの規模を有する。昭和三五年(一九六〇)私道拡幅工事で炉跡が発見され、昭和四〇―四二年、数回にわたって発掘調査が実施された。遺構としては直径約一四メートルの円形竪穴住居跡が一軒検出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「上野原遺跡」の解説

うえのはらいせき【上野原遺跡】


鹿児島県霧島市国分川内にある集落跡。錦江湾(きんこうわん)(鹿児島湾)に接した標高約260mの上野原台地に所在する。縄文時代早期前葉から近世までの複合遺跡で、台地の北側で発見された集落跡は約9500年前、縄文時代早期前葉のもので、台地中央から台地北縁にかけて延びる自然の浅い谷を利用した2筋の道に沿って広がり、52軒の竪穴(たてあな)住居群を中心に65基の集石遺構や16基の連穴土坑などが整然と配置され、日本最古、最大規模の定住集落跡といわれている。台地南側からは、縄文時代早期後葉の約7500年前の集石遺構と大型壺形土器、磨製石斧(せきふ)などを埋納した祭祀遺構や15万点におよぶ土器、石器、装身具などが発見され、先進的な縄文文化が開花していたと推定される。この集落跡から出土した土器は、1998年(平成10)に国の重要文化財に、遺跡の一部が1999年(平成11)に国の史跡に指定された。検出された遺構や出土遺物から、食料の調理法が早くから確立し、それらの技術を背景に他の地域に先駆けて縄文時代草創期から安定した社会が営まれていたと考えられている。現在、遺跡周辺は上野原縄文の森と呼ばれる公園として整備されている。JR日豊本線国分駅から車で約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

百科事典マイペディア 「上野原遺跡」の意味・わかりやすい解説

上野原遺跡【うえのはらいせき】

鹿児島県霧島市にある縄文早期の集落遺跡従来,縄文晩期に出現するとされてきた壺形土器や,後期に出現する滑車型耳飾りが出土した。壺形土器は土坑から出土し,胴部に穴をあけたものや,ベンガラを塗ったものなどがあり,煮炊き以外の特殊な用途に使用されたらしい。これらは約6400年前のアカホヤ火山灰降下直前まで継続し,以後断絶する。

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