下地中分(読み)シタジチュウブン

デジタル大辞泉 「下地中分」の意味・読み・例文・類語

したじ‐ちゅうぶん〔したヂ‐〕【下地中分】

中世、年貢や土地にかかわる荘園領主地頭との紛争解決の一方法。下地を折半してお互いに領有を認め合うもの。地頭が一円領主化する契機となった。

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精選版 日本国語大辞典 「下地中分」の意味・読み・例文・類語

したじ‐ちゅうぶん したヂ‥【下地中分】

〘名〙 中世、荘園領主と地頭の二重支配から生じる紛争を解消するため、荘園の下地を二分し、それぞれの一円支配の確立をはかったもの。下地をまとめて分割するほかに、荘園内の小地域ごとに分割される坪分け中分がある。中分。〔志賀文書‐正応五年(1292)五月一〇日・関東下知状〕

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百科事典マイペディア 「下地中分」の意味・わかりやすい解説

下地中分【したじちゅうぶん】

地頭と荘園領主との間の年貢公事(くじ)などをめぐる相論を解決するため,鎌倉時代中期から南北朝末期まで行われた方法。上分(じょうぶん)(年貢・公事などの得分物)を確保するため,これを生み出す土地(田畠のほか山野未開地も含む),すなわち下地を分割した。下地に対する実質的支配権(下地進止権(しんしけん))を握った地頭が,荘園領主である本所(本家(ほんけ))・領家(りょうけ)に貢納すべき年貢などを押領,下地の一円支配を行おうとして相論となり,その解決のためおもに行われた。具体的には相論の対象地全体を分割,相互にこれを侵さないよう境界線を引き,領家方地頭方などと称した。不均等分割の場合も少なくなく,荘民まで二分することもあった。手続きには当事者の和解によるもの(和与(わよ)中分)と,領家方から申請をうけた幕府が中分命令を下す場合とがあり,その結果,下地中分絵図や分文(わけぶみ)が作成され,相互に一円支配を行うことになった。なお中分された領家方・地頭方の地域に領家・地頭という地名が生まれ,近世村名に継承された例もままある。→東郷荘
→関連項目茜部荘伊作荘大野荘(石川)大野荘(大分)大山荘櫛淵荘検注雀岐荘佐々目郷寺社領荘園(日本)新見荘野原荘日置荘南部荘三入荘弓削島荘和佐荘和与状

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下地中分」の意味・わかりやすい解説

下地中分
したじちゅうぶん

13世紀中ごろ(鎌倉中期)から14世紀末ごろ(南北朝末期)まで行われた、年貢・公事(くじ)などをめぐる争論の解決方法の一つ。上分(じょうぶん)(年貢および公事などの剰余生産物)を確保するため、これを生み出す土地すなわち下地を分割する方法である。主として荘園(しょうえん)領主(本家(ほんけ)、領家(りょうけ))と地頭(じとう)の間で実施され、鎌倉・室町幕府がこれを政策的に推進した。寺社領の場合に多くみられ、かつ地域的には全国にわたるが、中国、四国、九州などの西国地方に事例が多い。13世紀になると地頭や有力名主(みょうしゅ)らによる荘域内外の未開地の開発の進行、農業生産以外の山野河海(さんやかかい)利用の発展(狩倉(かりくら)、伐木、漁労など)によって新たな得分(とくぶん)が生まれたが、これに伴い、地頭らの領主的支配は、従来からの年貢、公事抑留にとどまらず、田畑(たはた)、山野などの領有のいっそうの拡大に向かった。さらに承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、西国地方に置かれた新補地頭(しんぽじとう)らの荘園侵略もこれに輪をかけたため、領家、地頭間の争論は頻発した。その解決のため、年貢などの地頭請(うけ)とともに、ややこれにおくれ、かつ並行して行われたのが下地中分である。その方法として、争論対象地全体を分割し、それぞれ一方を両者が領有し、相互にこれを侵さないように境界線を引いた。その際田畑、山野などの地目や地形を考慮して分割するのみならず、居住する農民まで分割することもあり、また本来両者の得分の量に応じて分割するのが原則であったから、「中分」といっても均等分割とは限らなかった。その手続としては、当事者相互の和解によるもの(和与(わよ)中分)と、領家方から申請を受けた幕府が、一方的に中分命令を下す例があった。いずれにせよ、その結果、正式に中分絵図や分文(わけぶみ)が作成され、幕府の承認を得て相互に一円支配を行うことになった。

島田次郎

『安田元久著『地頭及び地頭領主制の研究』(1951・山川出版社)』『竹内理三編『体系日本史叢書6 土地制度史Ⅰ』(1973・山川出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「下地中分」の意味・わかりやすい解説

下地中分 (したじちゅうぶん)

13世紀中ごろ(鎌倉中期)から,14世紀末ごろ(南北朝末期)まで行われた年貢・公事などをめぐる争論の解決方法の一つで,上分(じようぶん)(年貢・公事などの剰余生産物)を確保するため,これを生み出す土地すなわち下地を分割する方法。主として荘園領主(本家・領家)と地頭の間で実施され,鎌倉・室町両幕府も,これを政策的に推進した。寺社領の場合に多くみられ,かつ地域的には全国にわたるが,中国・四国・九州などの西国地方に事例が多い。13世紀になると地頭や有力名主(みようしゆ)らによる荘域内外の開発の進行,農業生産以外の山野河海の利用の発展(狩倉・伐木・漁労など)によって,新たな得分が生まれたが,これにともない地頭らの領主的支配は,従来からの年貢・公事抑留にとどまらず,田畠・山野などの領有のいっそうの拡大にむかい,一方承久の乱(1221)後,西国地方におかれた新補地頭らの荘園侵略もこれに輪をかけたから,領家・地頭間の争論は頻発した。その解決のために,地頭請(うけ)とともに,ややこれにおくれかつ並行して実施されたのが下地中分である。その方法は,争論対象地全体を分割し,それぞれ一方を両者で領有し,相互にこれを侵さないように境界線をひき,地頭方,領家方などと称した。その際田畠・山野などの地目や地形を考慮するのみならず,居住する農民まで二分することもあり,また本来両者の得分(上分)の量に応じて分割するたてまえから,1/3と2/3,2/5と3/5などの不均等分割も少なくなかった。その手続としては当事者相互の和解によるもの(和与(わよ)中分)と領家方から申請をうけた幕府が,一方的に中分命令を下す例とがあった。いずれにせよ,その結果,正式に中分絵図や分文(わけぶみ)が作成され,幕府の承認をえて,相互に一円支配を行うことになった。14世紀中ごろ以降,室町幕府が半済(はんぜい)法実施にともない下地分割を認めたのは,基本的には鎌倉幕府のこのような領家と地頭との領主的対立に対する調停者的妥協策の踏襲と考えられる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「下地中分」の解説

下地中分
したじちゅうぶん

鎌倉~南北朝期に荘園領主と地頭の間でかわされた所領相論の解決方法の一つ。地頭の荘園年貢抑留の問題は,地頭職が設置された当初からあったが,承久の乱後,新補地頭がおかれると,西日本を中心に問題はいっそう拡大した。山野利用の進展も,両者間に多くの紛争を生むようになった。そうした問題の解決方法の一つが下地中分で,土地を地頭方と領家(荘園領主)方に分割する。分割方法には,土地の中央に境界線を引いて二つにわける場合と,田1枚ずつを二つにわける坪わけの二通りがあったが,いずれも1対1とは限らなかった。田だけでなく,山野や百姓なども中分の対象となった。鎌倉幕府は,下地中分による地頭と荘園領主の相論解決を政策的に進めたため,中分には当事者同士の示談によって成立し,これを幕府に承認してもらう和与(わよ)中分と,幕府が命じて中分する場合があった。中分にあたってはしばしば絵図が作成され,鎌倉後期には多くの荘園絵図がうまれた。南北朝期にも,1368年(応安元・正平23)の半済(はんぜい)令を実施する際,下地が中分された。この場合,二分された下地は本所方・半済方とよばれることが多い。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下地中分」の意味・わかりやすい解説

下地中分
したじちゅうぶん

鎌倉時代,荘園領主と地頭との争いを解決するため,土地を折半,あるいは2対1に分け,それぞれ領家方,地頭方の領掌権 (保有権) ,下地進止権 (処分権) を認め,相互に侵犯しないようにしたこと。これは鎌倉時代中期頃から盛んになり,幕府も争いの早期解決策として奨励した。下地中分には幕府の裁決によるものと,和解によるものとがあり,また方法には,土地を折半して一円支配 (→一円知行 ) を認め合う方法と,下地の坪ごとに,あるいは一単位の畑,屋敷ごとに折半するという,いわゆる坪分け中分とがあった。 (→地頭請 )  

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旺文社日本史事典 三訂版 「下地中分」の解説

下地中分
したじちゅうぶん

中世,荘園を地頭と荘園領主で分割支配すること
鎌倉時代の中ごろから地頭はしばしば年貢を納めなかったり,土地を横領したりして,荘園領主との間に争論が絶えなかった。その解決法として荘園そのもの(下地)を折半して,互いにその領有を認めて侵犯しないようにした。これには幕府の裁決(強制中分)と両者の自主的和解(和与中分)による場合とがある。鎌倉中期以降急速に増加し,地頭請とともに地頭の荘園支配権を強化し,荘園制の崩壊を促した。

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