下松(読み)さがりまつ

精選版 日本国語大辞典 「下松」の意味・読み・例文・類語

さがり‐まつ【下松】

[1] 〘名〙
① 枝が下の方へたれてひろがった松の木。
※光悦本謡曲・善界(1548頃)「あれに見えたるさがり松の、木末の嵐吹きしきり」
② 枝のたれ下がった松の木の由来を説明する伝説。神霊降臨の際の依代(よりしろ)という信仰から、切ることを忌み、また、伝説も結びついたもの。くだり松。
[2] (有名な枝のたれ下がった松があったところから) 京都市左京区修学院町一乗寺付近の旧地名。また、そこにあった古松。比叡山へ登る雲母(きらら)坂に続く坂道にあった。
梁塵秘抄(1179頃)二「根本中堂へ参る道、賀茂川は河広し、観音院のさがりまつ」

くだまつ【下松】

山口県南東部の地名。周防灘に面する海上交通の要地で、周防三港の一つに数えられた。江戸時代から塩田で栄え、現在は重化学工業都市。昭和一四年(一九三九)市制。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「下松」の意味・読み・例文・類語

くだまつ【下松】

山口県南東部の市。周防灘すおうなだに臨み、製塩業が発達したが、現在は重化学工業が盛ん。人口5.5万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「下松」の解説

下松
くだまつ

鷲頭わしず山の西麓、笠戸かさど湾の奥に開けた地一帯の総称近世西豊井にしとよい村のなかに下松町として位置づけられた。

地名の由来を「地下上申」は「往古青柳之浦と申たる由、然所に推古天皇年中青柳之浦の松に七やうの星天下り給ふのよしに付、夫より下松と申伝候由に候」とある。

建徳二年(一三七一)に九州探題として下向した今川了俊の「道ゆきぶり」には、長府住吉ちようふすみよし明神(現下関市住吉神社)に歌を詠んで「日のうちに周防のくた松といふところにつきぬとかたられし事をふと思ひ出て侍りしほどに」と記している。また了俊は康応元年(一三八九)足利義満の安芸厳島参詣随従して、その「鹿苑院殿厳島詣記」に「にゐの湊こぎ過て、くだ松といふとまりにつかせ給ふ、大内左京(義弘)大夫はこゝにぞまいりためる、御旅のかれ飯みき(神酒)などさまざままいる」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「下松」の意味・わかりやすい解説

下松[市] (くだまつ)

山口県南東部,周防灘沿岸の笠戸湾に臨む工業都市。1939年市制,54年米川村を編入。人口5万5012(2010)。南部の沿岸の宮ノ洲古墳は4面の舶載鏡を出土した前期古墳として知られる。南西部の末武平野には古代条里制の遺構が広範囲に残る。《和名抄》の生屋郷は山陽道に沿う花岡,生野屋付近にあたり,近世萩藩の都濃宰判勘場(代官所)のおかれた花岡は宿駅,市場町として栄えた。花岡八幡宮閼伽井(あかい)坊の塔婆(多宝塔)は重要文化財で室町期の繊麗な手法を伝える。中世からの港町下松は近世後期の干拓によって製塩業地として発展し,明治期には内海航路の寄航地であった。1897年の山陽鉄道(現,山陽本線)開通によって港町としての機能は衰えたが,大正以降は造船,金属,車両,石油の近代工場が設置され,工業都市に変貌した。第2次大戦後末武川上流に温見ダムが完成し,塩田跡地に火力発電所が新設され,隣接する周南市,光市とともに周南工業地域の一翼をなす。瀬戸内海国立公園の一部になっている。対岸の笠戸島との間には1970年に笠戸大橋が架けられた。市域中部をJR岩徳線が通る。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android