下河辺長流(読み)しもこうべちょうりゅう

精選版 日本国語大辞典 「下河辺長流」の意味・読み・例文・類語

しもこうべ‐ちょうりゅう【下河辺長流】

江戸前期の歌人、国学者大和の人。和歌、歌学に通じ、国学復興に力を尽くした。近世学問の先駆的研究を多くなしている。著「万葉集管見」「晩花集」など。寛永元~貞享三年(一六二四‐八六

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デジタル大辞泉 「下河辺長流」の意味・読み・例文・類語

しもこうべ‐ちょうりゅう〔しもかうべチヤウリウ〕【下河辺長流】

[1627~1686]江戸前期の歌人・国学者。大和の人。歌道伝統主義の打破を主張し、万葉集の注釈・研究に新風を示した。著「万葉集管見」「林葉累塵集」「晩花集」。

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朝日日本歴史人物事典 「下河辺長流」の解説

下河辺長流

没年:貞享3.6.3(1686.7.22)
生年:生年不詳
江戸前期の歌人・歌学者。父の姓は小崎,下河辺は母方の姓である。名共平,通称彦六。長流を長竜と表記することもある。享年60,62,63歳説があり,未確定。大和国宇陀,あるいは竜田の出生というが,いずれが是か未詳。10代は遊猟に明け暮れたが,一方では連歌にも身を入れて上達,片桐氏(大和竜田藩主)に妬まれたほどであった。また歌道にも心を寄せ,晩年の木下長嘯子に師事した。長流の長嘯子尊崇の念は強く,のちに『長嘯歌選』を編み,自ら編んだ私撰集に長嘯子の歌を多く採るなどという形となって表れている。 長嘯子の死とほぼ同時期に竜田藩を致仕してからは,しばらく放浪生活を送ったらしく,一時的に大坂に移って西山宗因と交わった。また三条西家蔵の具平親王筆『万葉集』と顕昭の『万葉集註』を一見すべく,三条西家に青侍として仕え,両書の書写に打ち込みつつ注釈の礎稿作成にも従事したようで,『歌仙抄』『万葉集名寄』の刊行という副産物も生まれた。 三条西家を退いてからは再び不安定な貧窮生活を余儀なくされたが,歌人,歌学者として大きな業績を次々と公にしたのはこの時期である。まず歌人としては,無名の歌人の詠を多く採った私撰集『林葉累塵集』『萍水和歌集』の刊行が挙げられる。ただし長流の意図を堂上公家への反抗といった視点で評価することには慎重でなければなるまい。歌学者として最善を尽くした注釈『万葉集管見』は刊行に至らず,『続歌林良材集』などにその力量がしのばれる。中年以降契沖親交を持ち,晩年水戸徳川家から万葉集の注釈を委嘱され,病で遂行不能のまま契沖に託した経緯はよく知られる。家集『長竜和歌延宝集』『晩花集』。<参考文献>森銑三「下河辺長流」(『森銑三著作集』2巻),村上明子「下河辺長流の三島社奉納百首歌」(『国文学論叢』31号)

(久保田啓一)

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改訂新版 世界大百科事典 「下河辺長流」の意味・わかりやすい解説

下河辺長流 (しもこうべちょうりゅう)
生没年:1624-86(寛永1-貞享3)

江戸前期の国学者。〈ながる〉ともよむ。通称彦六,名は具平(ともひら)。大和小泉藩士の小崎氏の子として生まれたが,母方の姓下河辺を名のる。生国は大和で,大坂に住した。若くして歌を好み木下長嘯子の門人となる。師の没後,三条西家に仕えたが,退身してのちは,いっさいの名利を捨て富貴におもねることなく,隠士として生涯を終えた。門流に今井似閑(じかん),野田忠粛,五井持軒らの有力者を輩出させ,特に大坂の地に歌学の礎を築いた功績は大である。その歌風は,長嘯子の影響を受け,因襲にとらわれず,自由で清新な調べに富む。また長流の声望を聞くにおよんだ水戸光圀招聘にも応ぜず,委嘱された《万葉集》の注釈事業も病気がちで果たせなかったため,かわりに契沖を水戸家に推挽した。契沖は先輩長流の遺志を継いで,よく《万葉代匠記》の大著を完成させた。著書は《万葉集管見》《枕詞燭明抄》《続歌林良材集》《晩花集》《林葉累塵集》など。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下河辺長流」の意味・わかりやすい解説

下河辺長流
しもこうべちょうりゅう
(1627―1686)

江戸前期の歌人、歌学者。生年は諸説あるが、家集『長龍和歌延宝集』(1681成立)に「五十五歳自集」とあるのによる。大和(やまと)国(奈良県)の武士の家に生まれたが志を得ず、一時京都の三条西家に仕えたのち、大坂で隠者として生涯を送った。貞享(じょうきょう)3年6月3日没。歌学者としてはとくに『万葉集』に力を注ぎ、寛文(かんぶん)(1661~73)初年ごろ『万葉集管見』を著述、旧説にとらわれない自由な討究の精神は、親交のあった契沖(けいちゅう)に大きな影響を与えた。契沖の『万葉代匠記(だいしょうき)』は、長流が徳川光圀(みつくに)の依頼を受けながら病に倒れ果たせなかった『万葉集』の注釈を、彼にかわって完成したものである。和歌は木下長嘯子(ちょうしょうし)に私淑、また、庶民の和歌を集めて『林葉累塵集(りんようるいじんしゅう)』(1670刊)などの選集を編んだことも注目される。家集には契沖編の『晩花和歌集』(1686成立)もある。

[嶋中道則]

 終(つひ)にわが着ても帰らぬ唐錦(からにしき)立田や何のふるさとの山

『『契沖全集附巻 長流全集』全2巻(1927・朝日新聞社)』

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百科事典マイペディア 「下河辺長流」の意味・わかりやすい解説

下河辺長流【しもこうべちょうりゅう】

江戸前期の歌人,古典学者。大和国小泉藩士小崎氏の子として生れたが母の姓を名のる。通称彦六,名は具平(ともひら)。木下長嘯子の門人。三条西家に仕えたのち,大坂に隠棲(いんせい)。古今伝授に疑問を感じ,《万葉集》に目を向ける。自由な立場で古語を解釈し,契沖らの国学へ道を開く。主著は《万葉集管見》。
→関連項目国学(近世)万葉代匠記

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「下河辺長流」の解説

下河辺長流
しもこうべちょうりゅう

1627~86.6.3

「しもかわべながる」とも。江戸前期の歌人・和学者。享年は3説あるが,自撰の「長竜和歌延宝集」所載記事に従って60歳説をとった。姓は小崎氏。母方の姓を名のる。名は共平(ともひら)。通称彦六。別号長竜・吟叟居。大和国立田(一説に宇多)生れ。木下長嘯子(ちょうしょうし)に私淑し,西山宗因に連歌を学ぶ。三条西家に青侍として仕え,「万葉集」の書写,研究につとめた。のち水戸光圀(みつくに)から「万葉集」の注釈を依頼されたが,病のため進まず,契沖(けいちゅう)に引き継がれた(「万葉代匠記」)。1670年(寛文10)に編刊した「林葉(りんよう)累塵集」は,最初の地下(じげ)歌人の撰集。著書「万葉集名寄(なよせ)」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下河辺長流」の解説

下河辺長流 しもこうべ-ちょうりゅう

?-1686 江戸時代前期の歌人,歌学者。
木下長嘯子(ちょうしょうし)にまなぶ。三条西家につかえ,同家所蔵の「万葉集」を書写。「万葉集名寄(なよせ)」「万葉集管見」をあらわしたほか,庶民の歌集「林葉累塵集」を刊行。晩年,徳川光圀(みつくに)から「万葉集」の注釈を依頼されたがはたせず,契沖(けいちゅう)にうけつがれた。貞享(じょうきょう)3年6月3日死去。大和(奈良県)出身。本姓は小崎。名は共(具)平(ともひら)。通称は彦六。号は「ながる」ともよみ,長竜ともかく。

下河辺長流 しもこうべ-ながる

しもこうべ-ちょうりゅう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下河辺長流」の意味・わかりやすい解説

下河辺長流
しもこうべちょうりゅう

[生]寛永3(1626)頃.大和
[没]貞享4(1687)頃
江戸時代前期の国学者,歌人。長竜とも書き,「ながる」とも読む。通称は彦六。武家出身。歌道に通じ,特に『万葉集』に詳しく,伝統にとらわれない創意に富む解釈を示した。契沖とも親交があり,徳川光圀に依頼された「万葉集注釈」は契沖に引継がれた。著書『万葉集管見』『枕詞燭明抄』や『林葉累塵集』 (1670) ,『晩花和歌集』 (86) など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「下河辺長流」の解説

下河辺長流
しもこうべちょうりゅう

1627?〜86
江戸前期の国学者・歌人
「ながる」とも読む。大和(奈良県)に武士の子として生まれた。のち江戸に出て,『万葉集』研究に励み,徳川光圀 (みつくに) にその注釈を求められたが,果たさずに没した。代わって契沖 (けいちゆう) がそれを大成。戸田茂睡とともに国学の先駆者。著書に『万葉集管見 (かんけん) 』など多数。

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世界大百科事典(旧版)内の下河辺長流の言及

【愚問雑記】より

…神楽歌(かぐらうた)および催馬楽(さいばら)の語句についての注釈書。江戸前期の歌学者下河辺長流著。神前で奏された楽舞にともない唱和された神楽歌,また雅楽風に編曲された民謡ともいうべき催馬楽の語句注釈書としては,前代の一条兼良の《梁塵愚案抄》があるが,本書はそれにつぐもので,契沖や賀茂真淵研究の先駆的位置におかれる。…

【契沖】より

…11歳のとき大坂今里の妙法寺に入り丯定(かいじよう)の弟子となり,13歳で高野山東宝院の快賢について仏道修行し,阿闍梨(あじやり)位を得て大坂生玉の曼陀羅院の住持となった。この間に下河辺長流の知遇を得たが,やがて27歳のころ放浪の旅に出て長谷から室生山に至って死を決意し,岩頭に頭を打ちつけたが果たさなかった。そして吉野や葛城を経て再び高野山に上り,さらに和泉国の久井村や隣村の万町に移り住んで約10年を過ごした。…

【国学】より

…この名称が最終的に定着したのは明治時代になってからであった。
[第1期]
 国学の源流は,元禄年間の下河辺長流(しもこうべちようりゆう),契沖(けいちゆう)の日本古典研究にまでさかのぼることができる。長流は武士出身の隠者,契沖は真言宗の僧であったが,ともに中世以来の閉鎖的な堂上歌学やその歌論に批判的であり,伝統の権威にとらわれぬ新しい古典注釈をめざした。…

※「下河辺長流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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