下野薬師寺跡(読み)しもつけやくしじあと

日本歴史地名大系 「下野薬師寺跡」の解説

下野薬師寺跡
しもつけやくしじあと

[現在地名]南河内町薬師寺 寺山

県道結城―石橋いしばし線沿いに位置する寺院跡で、国指定史跡。跡地内に安国あんこく寺、その南方に龍興りゆうこう寺があり、ともに真言宗智山派。嘉祥元年(八四八)一一月三日の太政官符(類聚三代格)に「天武天皇所建立也」とあり、下野国を本拠とする豪族下毛野朝臣古麻呂が、祚蓮を開山として創建した氏寺を基礎として、天武天皇の東国経営への関心と古麻呂の中央政権における政治力を背景に、七世紀後半に官寺とされたという説が有力で、出土瓦の編年からも裏付けられる。以後八世紀の前半まで「下野国造薬師寺司」の主導のもとに「下野薬師寺造司工」による造営活動は継続されており(天平五年七月一日「右京計帳」・同一〇年「駿河国正税帳」正倉院文書)、「体製巍々、宛如七大寺、資財亦巨多矣」(「続日本後紀」嘉祥元年一一月三日条)という威容を誇る伽藍において、鎮護国家の法会が営まれることになった。天平勝宝元年(七四九)七月一三日に寺領墾田が五〇〇町を限りとして許されていることから(続日本紀)奈良時代には財政的基盤が整備され、同六年一一月二四日薬師寺僧行信が配流、宝亀元年(七七〇)八月二一日には道鏡が「造下野薬師寺別当」として実質的に流罪とされており(続日本紀)、当寺は特別な役割を負う官寺となっていたと考えられる。

当寺に東国随一の寺院としての地位を与えたのは、天平宝字五年(七六一)とされる鑑真将来の登壇受戒の作法に基づく、戒壇設立と受戒の勤修であろう(「伊呂波字類抄」など)。以後「坂東十国得度者、咸萃之於此」として、東国沙弥・沙弥尼奈良東大寺と筑紫観世音かんぜおん(現福岡県太宰府市)とともに本朝三戒壇の一つを擁する当寺における登壇受戒により、国家から比丘・比丘尼として認定された(「続日本後紀」嘉祥元年一一月三日条、「延喜式」玄蕃寮)。嘉祥元年一一月三日には別当職が廃され、代りに戒壇十師中から授戒阿闍梨を兼ねる「講師」が任ぜられることになり(続日本後紀)、延長五年(九二七)一〇月二二日には「下野薬師寺講師」に「律宗僧」の補任が規定されたことからも(「太政官符」政事要略)、当寺が戒壇・受戒を重要な存続の柱として経営されていたと考えられる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下野薬師寺跡」の意味・わかりやすい解説

下野薬師寺跡
しもつけやくしじあと

栃木県下野市にある寺院址。7世紀末頃,大宝律令の制定にもかかわった下毛野古麻呂(しもつけぬのこまろ)によって建立されたといわれる。奈良時代の天平宝字5(761)年,奈良の東大寺,筑紫の観世音寺と並ぶ「三戒壇」の一つとして戒壇が設置され,東国の仏教の中心となった。奈良時代末期には道鏡が別当として配流された。9世紀中頃に大火に見舞われ,伽藍中心部が焼失するなどして衰退し廃寺となりかけたが,鎌倉時代の 13世紀半ばに慈猛上人(じみょうしょうにん)が復興させた。その後,足利尊氏が全国に安国寺を設置したのに伴い,1339年に安国寺と改称したといわれる。1921年に国の史跡に指定。1966~2006年の発掘調査により,塔跡や金堂跡,回廊跡,南門跡,中門跡などが検出され,東西約 250m,南北約 350mの外郭施設,約 100m四方の回廊をもつ一塔三金堂形式の伽藍配置である可能性が高まった。また,回廊外の東に残る別の塔跡は 9世紀に焼失した塔に代わって再建されたものであることがわかった。古瓦,土師器,風鐸も発見されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「下野薬師寺跡」の意味・わかりやすい解説

下野薬師寺跡 (しもつけやくしじあと)

栃木県下野市の旧南河内町薬師寺に7世紀後半に創建された寺院の跡。下野薬師寺は761年(天平宝字5)に戒壇が開基され,東大寺および筑前観世音寺の戒壇と合わせて,天下三戒壇と称されたこと,770年(宝亀1)に道鏡が造下野国薬師寺別当として配流され,772年この地で没したことで,とくに知られている。1965-71年に行われた発掘調査によって寺域西寄りで,南北中軸線上に南門,中門,金堂,講堂が並び,中門と講堂をつなぐ回廊のなかに,金堂とその背後西寄りに戒壇堂と称する建物跡のある状況が判明した。塔跡はこの伽藍から離れて,寺域内南東寄りに発見された。ただし,これら遺構の下層には,さらに掘立柱遺構の存在が一部で確認されていて,創建時の実態および8世紀の戒壇開基にともなう整備状況と発掘による検出遺構との関係については,なお検討すべきところがある。1921年国の史跡に指定された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下野薬師寺跡」の意味・わかりやすい解説

下野薬師寺跡
しもつけやくしじあと

栃木県下野(しもつけ)市薬師寺にある古代東国有数の官寺跡。奈良時代には日本三戒壇の一がここに置かれ、僧道鏡(どうきょう)の流配寺としても有名。『続日本紀(しょくにほんぎ)』などわが国の正史にも寺名が記されるが、創建年代は天智(てんじ)・天武(てんむ)・文武(もんむ)朝期など諸説があり不詳。しかし、1966年(昭和41)から71年まで6次の発掘が実施され、大和(やまと)川原寺(かわらでら)系の八葉複弁蓮華文(れんげもん)や重弧(じゅうこ)文の優美な軒瓦(のきがわら)が出土した。これによって天武朝期(673~686)ごろの創建説が有力となる。四至は塀によって画され、東西252メートル、南北340メートル強。東・西辺の中間には門が置かれ、やや西に寄った中軸線上に南門、中門、金堂、講堂が直線的に並び、中門と講堂は回廊で結ぶ。東塔は回廊の外に置かれる。回廊の正面幅105メートル(350尺)、講堂と中門の心心距離96.9メートル(323尺)など数値が示す規模は地方寺院としては大きく、正史の記載を裏づける。主要堂宇跡の現況は安国寺の境内となっている。

[大金宣亮]

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国指定史跡ガイド 「下野薬師寺跡」の解説

しもつけやくしじあと【下野薬師寺跡】


栃木県下野市薬師寺にある寺院跡。鬼怒(きぬ)川の支流・田川右岸の台地上に所在する。古代の東国で最高の寺格(天下三戒壇の一つ)をもち、歴史史料から薬師寺僧・行信(ぎょうしん)や道鏡(どうきょう)が配流された寺としても知られることから、1921年(大正10)に国の史跡に指定された。指定地域は、南北が約350m、東西約250mで、北限がやや東下がりになっているが、ほぼ南北に長い矩形(くけい)となっている。1966年(昭和41)からの数十回にわたる発掘調査によって、主要伽藍(がらん)は南大門、中門、金堂、講堂が南北に並び、回廊が中門と講堂を結び、東塔も存在する奈良の薬師寺式を基本としていることが明らかになった。JR東北本線自治医大駅から車で約7分。

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百科事典マイペディア 「下野薬師寺跡」の意味・わかりやすい解説

下野薬師寺跡【しもつけやくしじあと】

栃木県河内(かわち)郡南河内町(現・下野市)にある奈良時代の寺院跡(史跡指定)。当時その戒壇院は日本三戒壇の一つに数えられ,また道鏡の配流(はいる)地としても名高い。発掘調査の結果,金堂,講堂,中門,東塔などの遺構と思われるものが発見され,伽藍(がらん)配置は大和薬師寺式と推定される。→戒壇

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