下野街道(読み)しもつけかいどう

日本歴史地名大系 「下野街道」の解説

下野街道
しもつけかいどう

新編会津風土記」は、下野街道を若松城下から山王さんのう峠経由で下野国今市までの道とするが、同書ではまた越後街道の坂下ばんげ(現会津坂下町)から高田たかだ市野いちの(現会津高田町)・市野峠経由で大内おおうち宿(現下郷町)に出る道も下野街道と記載している。後者は越後の新発田・村上藩主が江戸に出る要路である。岩代国絵図(県立図書館蔵)では前者・後者とも一里塚が図示されている。若松城下から山王峠にかかる下野街道は南山みなみやま通の称もあり、正保(一六四四―四八)の会津城下絵図(県立博物館蔵)では南山道と注記されている。これを関東側では会津西街道とよび、那須なす山のおお峠を越える南山松川みなみやままつかわ(会津中街道)および那須野なすの原を通る原方はらかた街道(会津東街道)と区別した。若松城下からの各宿および宿間の距離は次のとおりである。若松―二里二一町―福永ふくなが―一九町―関山せきやま(以上現会津本郷町)―二里一八町―大内―二里二町―倉谷くらだに―三二町―楢原ならはら(以上現下郷町)―一里三四町―田島たじま―一里一六町―川島かわしま―一里―糸沢いとざわ(以上現田島町)―二里一二町―横川よこかわ―二里二〇町―中三依なかみより―一里二二町―五十里いかり―二里七町―高原たかはら新田(以上現栃木県藤原町)で以下は略す。坂下からは二里三二町―高田―二里一町―市野―二里四町―大内となっている。初めは若松から本郷ほんごう(現会津本郷町)に継立てたが、本郷では迷惑であると申出たため、慶長五年(一六〇〇)から同六年頃本郷を通過し、火玉ひだま(寛永四年福永と改称)に継立てるよう変更したという(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「下野街道」の解説

しもつけかいどう【下野街道】


福島県南会津郡下郷町大内ほかにある江戸時代の街道跡。会津藩が幕府に報告した本道五筋の一つ。会津若松城下から日光神領(じんりょう)今市までの総延長約132km、道幅は約3.8m。初代藩主・保科正之によって開かれた。会津から江戸へ行く最短の道として、会津藩のほか、近隣諸国の藩主が参勤交代に利用し、会津藩から江戸へ移送する廻米(かいまい)の輸送路としても活用され、政治的・経済的に重要な街道だった。1884年(明治17)に国道121号が開通して以降は使われなくなり、山間を通る部分は一部県道や林道となり、峠を越える山道や急峻な場所は残されたまま、荒廃した。1983年(昭和58)に福島県教育委員会による「歴史の道調査」が行われ、次いで、1995年(平成7)から1999年(平成11)にかけて、文化庁補助による「歴史の道整備活用推進事業」が実施され、街道のところどころに残る石畳や一里塚、峠の茶屋の遺構などが整備された。2002年(平成14)に、境界が確定できた下郷町の大内宿を中心に約10kmの古道と三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観音碑などの関連遺跡が国の史跡として指定された。なお、下郷町大内宿は1981年(昭和56)に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。会津鉄道湯野上温泉駅から車で約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「下野街道」の解説

下野街道

(福島県南会津郡南会津町~下郷町~大沼郡会津美里町)
歴史の道百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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