中山神社(読み)なかやまじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「中山神社」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐じんじゃ【中山神社】

岡山県津山市一宮にある神社。旧国幣中社。祭神は鏡作神ほか。慶雲三年(七〇六)の創祀。本殿は中山造、鳥居も中山鳥居といわれる特殊なもの。美作国一の宮。ちゅうざん。

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デジタル大辞泉 「中山神社」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐じんじゃ【中山神社】

岡山県津山市にある神社。主祭神は鏡作神。慶雲3年(706)の創建と伝える。美作みまさか一の宮仲山ちゅうさん大明神。南宮。

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日本歴史地名大系 「中山神社」の解説

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]津山市一宮 長良嶽

津山盆地を流れるみや川上流、川と横野よこの川合流地点い近い鵜ノ羽川側の長良嶽ながらたけに鎮座。旧国幣中社。奈良時代以前に属する平瓦二種が当社地から発掘されている。チュウサン、またチュウゼン神社ともよばれる。「延喜式」神名帳の名神大社で、美作国では唯一臨時祭の列に入る社である。明治一三年(一八八〇)それまで諸説あった祭神を検討して、当社蔵の中山神社縁由(室町末―江戸時代初め成立か)の説が採られ、鏡作命を主神とし、天糠戸神・石凝姥神を相殿に配すと決定した。それ以前には吉備津彦命や大己貴命を主神とする説などがあった。社伝(中山神社縁由・一宮社伝書上など)によれば、地主神として大己貴命が主神で、中山の神が霧山から天降った時、その座を譲ったという。大己貴命を奉じていた伽多野部長者乙丸が遷座をそねんだため、中山神の従神・贄賂狼神の怒りを受け、弓削ゆげ(現久米郡久米南町周辺)に移住し、毎年一月八日鹿二頭を奉供することとした。のち神饌を一年怠ったため神の祟りを受け、乙丸は贄賂狼神を弓削庄下神目しもこうのめ(現御津郡建部町)に勧請し、志呂しろ大明神として崇敬した。贄賂狼神の神体は猿田彦大神で、眷族は猿・狐である。また鹿を供饌した所は猿田彦神を祀った贄殿谷であると記す。

「今昔物語集」巻二六に「美作国神、依猟師謀止生贄語」の話がある。

<資料は省略されています>

生贄とされた娘が父母と嘆き悲しんでいると、東の方より「犬山ト云事ヲシテ、数ノ犬ヲ飼テ、山ニ入テ猪・鹿ヲ犬ニ令殺テ取事ヲ業トシケル人」が来て、娘に代わって犬二匹とともに長櫃に入り、生贄となる。社前では「長七八尺許ナル猿、横座ニ有リ、歯ハ白シテ、顔ト尻トハ赤シ。次々ノ左右ニ猿百許居並」ぶ有様であった。猟師は犬とともにこの猿神を退治したという。祭神を鏡作命とするのは、当社近隣に香々美かがみ(現苫田郡鏡野町)の地名が残されていて、実際に鏡作りが行われていた可能性が強いと考えられるところからで、また大己貴命は、当地が出雲文化圏の影響下にあったことにより、吉備津彦命は行政区上、美作国はもと吉備国に属していたことから、当然吉備津彦命圏と考えられたものか。長良嶽に鎮座する本来の神は、山の神・水の神・田の神に連なるものであったろう。なお、猿神社が長良嶽東麓の磐座にあり、その地を「にえんどう」と称する。

史料上の初見は「三代実録」貞観二年(八六〇)正月二七日条で、神階が正五位下から従四位下に昇っている。

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]中京区岩上町

古くは岩上いわがみ神社ともよばれ、蛸薬師たこやくし通の北、岩上いわがみ通に東面して鎮座。祭神素盞嗚すさのお命。櫛石窓くしいわまど豊石窓とよいわまどの二神を併せ祀る。別説に園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)新羅しんら明神を勧請したとも伝える。旧村社。もと嵯峨天皇の後院冷泉れいぜい(現中京区)の鎮守社であったといわれ、「百錬抄」永承五年(一〇五〇)七月三日条に或記云として「六月十六日、冷泉院石上明神被立神殿了」とある。藤原周光の冷泉院を詠んだ詩「夏日泉亭即事」(本朝無題詩)に「霊祠ハ南ニ峙チテ暮松青シ」とあるのがそれと思われる。永承六年には従三位、天喜元年(一〇五三)にははじめて官幣を受けたと伝える。冷泉院荒廃後も旧地にあり、藤原家隆の「壬二集」に「岩神の杜の下水ゆふかけて大宮人のすずむころかな」と詠んでいる。

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]中山町束積

もりくちに鎮座。旧郷社。祭神は大己貴命など八柱。近世は大森おおもり大明神と称された。明和四年(一七六七)の八橋郡神社改帳(県立博物館蔵)には祭礼九月九日、社八尺四方、社地三七間×五八間とあり、石鳥居や随身門・舞殿などのあったことも記される。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では束積つかづみ村の産土神とされ、勧請年紀不分明とある。祭神のうち稲荷三神は束積村の新田開発の際、京都伏見から勧請したという(中山神社由緒)

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]名張市薦生

薦生こもおのほぼ中央崎切さきぎりにあり、もと春日神社とも中山社ともよばれた。創建の由来などは不明だが、「春日社記」に「神護景雲元年六月廿一日伊賀国名張郡夏見郷一瀬河爾弖御沐浴、以鞭為験立給、成樹生付、自其以後御同国薦生中山数月御、時風・秀行等焼栗各一賜宣云、汝等子等無断絶可我ニ仕ル者、栗殖ヘシニ必可生付、即生付了、因之始号中臣殖栗連」とある。「続日本紀」天平一一年(七三九)正月条に中臣殖栗連がすでに現れており、「春日社記」の記事は後世の偽作であることは明らかである。しかし同書が成立したと思われる鎌倉時代中―末期頃には、春日神遷幸の旧跡地とする説が成立していたと考えられ、創建の由来は少なくとも鎌倉中―末期以前に求められよう。

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]松山町 内町

松山町の東部、出羽山地の西方山麓に鎮座。祭神は倉稲魂命。延宝四年(一六七六)の創祀で、当初は源鎮霊神と称した。元文三年(一七三八)松山藩主酒井忠休が毛呂善大夫を普請奉行として社殿をつくり替え、神祇管領の吉田家から中山大明神の神号を受けた。明治三年(一八七〇)神仏分離のとき社坊修善しゆうぜん寺は還俗して神式となり、翌四年県社となったが、同九年の社格改革で郷社となった(飽海郡誌)

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]下関市綾羅木本町

綾羅木あやらぎの海岸の松原に鎮座。尊王攘夷派の公家中山忠光を祀る。旧県社。

忠光は忠能の第五子で、安政五年(一八五八)当時七歳の祐宮(のちの明治天皇)の侍従となった。祐宮の生母中山慶子は忠光の姉。文久三年(一八六三)長州に下って久坂玄瑞の組織する光明寺党の党主となり、同年八月には大和天誅組の挙兵に参加。だが八月一八日の政変後、長州に逃れ辺地を転々としたが、元治元年(一八六四)一一月五日(一説には一二月一五日)豊浦郡田耕たすき(現豊北町)で暗殺された。遺体は長櫃に入れられ夜道を運ぶ途中、綾羅木で夜が明けたので人目を恐れ、かつに葬られたといわれる。

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]串原村 中山

串原村のほぼ中央に位置し、樹齢三〇〇―四〇〇年の杉・檜に囲まれている。祭神は広国押武金日尊。旧郷社で、串原全郷の総氏神。創建年月は不詳だが、里伝によると、大和国吉野郡金峯きんぶ神社(現奈良県吉野郡吉野町)の分社で、串原城主遠山氏の尊崇が厚かった。天正二年(一五七四)武田勝頼により同氏滅亡後は、村民により祭祀が営まれてきたという。

中山神社
なかやまじんじや

[現在地名]五泉市橋田 中山

菩提寺ぼだいじ山の東麓にあり、祭神は大穴牟遅命・大山咋命・建御名方命・少彦名命・天穂日命。もとは山王大権現と称したが、明治初年に日枝ひえ神社と改称、同四〇年(一九〇七)に現名に改める。社伝によると「延喜式」神名帳に載る中山神社にあたり、創立当時七千貫の社領を有したという。康永三年(一三四四)近江の山王権現(現日吉大社)の分霊を配祀してから山王大権現と称した。天文一六年(一五四七)護摩堂ごまどう(現南蒲原郡田上町)城主平賀左京進為資が神殿を改造し、社領六反二歩を寄進したが、同年焼失したため上杉氏に請い再建したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山神社」の意味・わかりやすい解説

中山神社
なかやまじんじゃ

岡山県津山市一宮(いちのみや)に鎮座。金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀(まつ)るというが、鏡作神(かがみつくりのみこと)を主神とし天糠戸神(あまのぬかどのかみ)、石凝姥神(いしこりどめのかみ)を相殿(あいどの)として祀るともいう。社伝によると、706年(慶雲3)の創祀(そうし)といわれ、860年(貞観2)に従(じゅ)四位下の神階を授かり、『延喜式(えんぎしき)』では名神(みょうじん)大社に列した。1017年(寛仁1)、後一条(ごいちじょう)天皇の即位後、使者を遣わして神宝を名社に奉幣する一代一度の大神宝の栄誉を受けた。蒙古(もうこ)襲来のとき、異国降伏の祈祷(きとう)を行った。美作(みまさか)国(岡山県北部)一宮として崇敬された。旧国幣中社。例大祭は4月3日。本殿は出雲(いずも)国(島根県)富田(とだ)城主尼子晴久(あまごはるひさ)が1559年(永禄2)に再建したもので、中山造とよばれる特殊な形式をもち、国の重要文化財に指定されている。参道入口には、貫(ぬき)の両端が柱の外に抜けていない石鳥居があり、明神鳥居の原型とみられ中山鳥居とよばれている。

[加藤隆久]

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改訂新版 世界大百科事典 「中山神社」の意味・わかりやすい解説

中山神社 (なかやまじんじゃ)

岡山県津山市一宮に鎮座。旧国幣中社。鏡作神を主神として天糠戸(あめのぬかど)神,石凝姥(いしこりどめ)神を相殿(あいどの)神としてまつる。仲山大明神とも南宮とも称せられる。社伝によると706年(慶雲3)の鎮座とされ,860年(貞観2)に従四位下の神階を授かり,のち正三位に昇り,《延喜式》では名神大社に列せられた。中世以後武将に崇敬され,美作国の一宮として厚い信仰を受けた。1017年(寛仁1)には一代一度の奉幣を受けた。蒙古襲来のさい異国降伏の祈願を行い,以来御鉾(鉾立)祭が行われるようになった。現在は御注連(おしめ)祭といわれている。本殿は1559年(永禄2)に尼子晴久が再建,中山造と呼ばれ,重要文化財。
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百科事典マイペディア 「中山神社」の意味・わかりやすい解説

中山神社【なかやまじんじゃ】

岡山県津山市西一宮に鎮座。旧国幣中社。鏡作(かがみつくり)神をまつる。706年の鎮座と伝える。延喜式内の名神大社とされ,美作(みまさか)国の一宮。例祭のほかに蒙古襲来の時,異国降伏を祈ったなごりという御注連(みしめ)祭などがある。中山造といわれる本殿は重要文化財。

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デジタル大辞泉プラス 「中山神社」の解説

中山神社

岡山県津山市にある神社。延喜式内社。祭神は鏡作神(かがみつくりのかみ)。美作国一之宮。1559年に再建された中山造の本殿は国の重要文化財に指定。

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