中村修二(読み)ナカムラシュウジ

デジタル大辞泉 「中村修二」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐しゅうじ〔‐シウジ〕【中村修二】

[1954~ ]科学技術者。愛媛の生まれ。平成5年(1993)、世界で初めて高輝度青色発光ダイオードの開発・製品化に成功。平成26年(2014)、赤崎勇天野浩とともにノーベル物理学賞受賞同年文化勲章受章

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村修二」の意味・わかりやすい解説

中村修二
なかむらしゅうじ
(1954― )

応用物理学者。愛媛県西宇和(にしうわ)郡伊方(いかた)町出身。アメリカ国籍。1977年(昭和52)徳島大学工学部電子工学科卒業。1979年同大学院修士号取得、日亜化学工業株式会社(徳島県阿南(あなん)市)に入社。1988年青色発光ダイオード青色LED)の研究のためにアメリカのフロリダ大学留学。帰国後、窒化物系材料を使用した青色発光ダイオードの研究開発に取り組み、1993年(平成5)高輝度青色発光ダイオードの世界初の実用製品化に成功した。1994年徳島大学大学院博士号を取得。その後も、1995年青色半導体レーザーの室温発光に成功、1997年青色半導体レーザーを開発し大容量のブルーレイディスクの読取りや記憶への道を開いた。1999年日亜化学工業を退社し、2000年(平成12)にカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校工学部教授に就任した。2000年代中ごろにアメリカの市民権を取得。2014年「明るく省エネルギーな白色光源を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明」の業績により、名城大学終身教授および名古屋大学特別教授・名誉教授である赤﨑勇、名古屋大学教授天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞。同年、文化功労者、文化勲章を受章した。

[馬場錬成 2015年2月17日]

『西沢潤一・中村修二著『赤の発見 青の発見――高輝度LEDで光の三原色をつくった天才たち』(2014・白日社)』『日経BP社特別編集班編『中村修二劇場』(2014・日経BP社)』『畠山憲司著『中村修二の反乱』(角川文庫)』『杉田望著『中村修二ノーベル物理学賞受賞までの闘い――日本を捨てた男が日本を変える』(文芸社文庫)』

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百科事典マイペディア 「中村修二」の意味・わかりやすい解説

中村修二【なかむらしゅうじ】

応用物理学者。米国籍。工学博士。カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校教授。愛媛県西宇和郡伊方町出身。大洲市立大洲北中学校・愛媛県立大洲高等学校を経て,1977年徳島大学工学部電子工学科卒業。1979年同大学院修士号取得。日亜化学工業株式会社(徳島県阿南市)に入社。1988年青色発光ダイオード研究のためにフロリダ大学留学。帰国後,窒化物系材料を使用した青色発光ダイオードの研究開発に取り組み,当時の名古屋大学教授赤【さき】勇,同大学学生天野浩らが結晶化に成功した技法を発展させて,1993年高輝度青色発光ダイオード(青色LED)の世界初の実用製品化に成功した。1994年徳島大学大学院博士号取得。1995年青色半導体レーザーの室温発光に成功,1997年青色半導体レーザーを開発し大容量ブルーレイディスクの読取・記憶を成功させた。1999年日亜化学工業を退社し,2000年カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校工学部教授。特許をめぐり日亜化学工業との間で訴訟となり,日米の裁判所で争う。2004年特許の発明の対価の一部として,東京地裁は日亜化学工業に対して中村に200億円を支払うよう命じ,大きな話題となる。日亜化学工業側は控訴し,2005年東京高等裁判所の判決では,日亜化学工業側が約8億4000万円を中村に支払うことで和解が成立した。2014年〈明るく省エネルギーな白色光源を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明〉の業績により,赤【さき】勇,天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞。文化功労者(2014年),文化勲章受章(2014年)。→ノーベル賞

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中村修二」の意味・わかりやすい解説

中村修二
なかむらしゅうじ

[生]1954.5.22. 愛媛,瀬戸
半導体科学者。1977年徳島大学工学部電子工学科を卒業,1979年同大学大学院修士課程を修了,1994年工学博士号を取得。修士課程修了後,徳島県の日亜化学工業に入社,開発部門で研究・開発に従事した。1988年アメリカ合衆国のフロリダ大学に留学,帰国後の 1989年から青色発光ダイオード(→発光ダイオード LED)の研究・開発に邁進する。窒化ガリウム GaN系の半導体に取り組み,結晶薄膜成長装置を自作し,実験を進めた。1992年,鍵となる p型の GaN,インジウム窒化ガリウム InGaNの製造に成功,1993年には従来よりも 100倍明るく光る高輝度青色LEDの製品を発表し,たいへんな驚きをもって迎えられた。のちに緑色LEDも開発。光の三原色の赤と緑と青の LEDを組み合わせた白色LEDが製品化され,省エネルギー,環境保全などに役立っている。1995年には青色半導体レーザーの開発に成功し,1999年に製品化された。同 1999年に日亜化学を退社,翌 2000年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授に迎えられ,その後アメリカ国籍を取得した。2001年に発明の特許権と対価をめぐって日亜化学と争い,のち和解したが,日本企業の従業員への報酬のあり方に一石を投じた。1996年仁科記念賞,2002年ベンジャミン・フランクリン・メダル,2008年スペイン皇太子賞,2011年エミー賞などを受けた。2014年,青色LED開発の功績により赤﨑勇天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞した。同 2014年,文化功労者に選ばれ文化勲章を受章。(→物性物理学

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知恵蔵mini 「中村修二」の解説

中村修二

電子工学者。1954年5月22日、愛媛県四ツ浜村(現伊方町)生まれ。79年、徳島大大学院修士課程を修了し、蛍光製品製造業「日亜化学工業株式会社」に入社。88年に窒化ガリウムの結晶を大量生産する独自の製法を編み出し、93年、窒化ガリウム結晶を用い、高輝度青色LEDを世界で初めて実用化・製品化することに成功した。94年、徳島大学大学院博士号を取得。97年には、大容量ブルーレイディスクに用いられる紫色半導体レーザー(LD)を開発するなど、光学分野の第一人者として活躍。98年「ジャック・A・モートン賞」を受賞。99年、日亜化学工業を退社し、2000年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授となる(後に米国籍を取得)。01年には、特許権をめぐり日亜化学工業に対する訴訟を提起し、大きな関心を集めた。02年には、米国のノーベル賞といわれる「ベンジャミン・フランクリン・メダル」を受賞し、06年、愛媛大学客員教授に就任。14年10月7日、スウェーデン王立科学アカデミーは同氏と赤崎勇・天野浩の3名にノーベル物理学賞を与えることを発表した。

(2014-10-9)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村修二」の解説

中村修二 なかむら-しゅうじ

1954- 昭和後期-平成時代の電子工学者。
昭和29年5月22日生まれ。昭和54年日亜化学工業にはいる。平成5年大型カラーディスプレーにはかかせない青色発光ダイオード(LED)の実用化に世界ではじめて成功。11年には次世代DVD(デジタル多用途ディスク)の記録用光源となる紫色半導体レーザー(LD)を開発した。12年カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。18年愛媛大客員教授。26年赤崎勇,天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞。同年文化功労者,文化勲章。愛媛県出身。徳島大卒。

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