中村富十郎(読み)ナカムラトミジュウロウ

デジタル大辞泉 「中村富十郎」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐とみじゅうろう〔‐とみジフラウ〕【中村富十郎】

[1719~1786]歌舞伎俳優。初世。屋号、天王寺屋大坂の人。初世芳沢あやめ三男。名女形として活躍し、「京鹿子娘道成寺」の創演者として知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「中村富十郎」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐とみじゅうろう【中村富十郎】

歌舞伎俳優。初世。大坂の人。享保一六年(一七三一)江戸市村座で初舞台。晩年まで女方の大立者として三都で活躍し、舞台の若さを失わなかった。容姿がすぐれ、地芸所作事をかねた。「京鹿子娘道成寺」を創演。享保四~天明六年(一七一九‐八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村富十郎」の意味・わかりやすい解説

中村富十郎
なかむらとみじゅうろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号は代々天王寺屋。

初世

(1719―1786)元禄(げんろく)期(1688~1704)の名女方(おんながた)初世芳沢(よしざわ)あやめの三男。俳名慶子(けいし)。宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)(1751~1789)にかけて活躍した代表的女方。初世中村京十郎に師事して所作事(しょさごと)を修業、美貌(びぼう)で芸域が広く、地芸にも優れていた。晩年には立役(たちやく)まで演じた。とくに『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』の創演者として後世に知られる。初世瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)と並び、女方舞踊全盛期を代表する俳優でもあった。

服部幸雄

2世

(1786―1855)3世中村歌右衛門(なかむらうたえもん)の門弟。大坂の子供芝居から出発し、しだいに実力を認められて1833年(天保4)3世中村松江から2世を襲名した。文政(ぶんせい)~天保(てんぽう)(1818~1844)のころに活躍し、幕末の上方(かみがた)劇壇を代表する名女方となる。俗に「難波(なんば)の太夫(たゆう)」とよばれた。1843年、奢侈(しゃし)の暮らしがとがめられ、大坂を追放され、堺(さかい)・京・名古屋などの芝居に出勤し、堺で没した。

[服部幸雄]

3世

(1859―1901)大阪出身の女方だが、1886年(明治19)以後、東京の俳優となる。1891年に3世を継いだ。

[服部幸雄]

4世

(1908―1960)2世坂東彦十郎(ばんどうひこじゅうろう)の三男。3世坂東鶴之助の時代、片岡我當(がとう)(13世片岡仁左衛門(にざえもん))らと青年歌舞伎で活躍し、1943年(昭和18)4世富十郎を襲名。第二次世界大戦後は関西歌舞伎に移り、3世中村梅玉(ばいぎょく)没後の立女方(たておやま)として重んじられた。

[服部幸雄]

5世

(1929―2011)本名渡辺一(はじめ)。4世の長男。4世坂東鶴之助、6世市村竹之丞(たけのじょう)を経て、1972年(昭和47)9月、5世を襲名した。音声のさわやかさ、台詞(せりふ)術の巧みさに卓抜した才能をもつ。骨法の正しい伝統の技芸を継承し、芸域も広く、所作事にも優れる。鶴之助を名のっていた青年時代、2世中村扇雀(後の4世坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう))とともに、武智歌舞伎(たけちかぶき)に参加して人気があり、「扇鶴時代」とよばれた。1990年(平成2)紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章、1994年重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受け、1996年日本芸術院会員となる。

[服部幸雄]

『中村富十郎著『五代目中村富十郎 五十年の芸』(1994・講談社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「中村富十郎」の意味・わかりやすい解説

中村富十郎 (なかむらとみじゅうろう)

歌舞伎俳優。5世まであり初世が有名。(1)初世(1721-86・享保6-天明6) 安永・天明期(1772-89)を代表する若女方。上記のほかに,1719年生れ,1725年生れとする説がある。初世芳沢あやめの三男。養父は初世中村新五郎。俳名慶子。1729年(享保14)京都の佐野川座の色子となり,江戸に下って31年に中村富十郎と名のる。34年冬京都の都万太夫座で初座本。以後三都を通じて大当りを続け,1785年(天明5)には歌舞伎一道惣芸頭の極位を占めた。美貌で,時代,世話,女武道,傾城など芸域が広く,所作事にも優れ,《京鹿子娘道成寺》(《娘道成寺》)の創演者として名を残す。当り役は《大内鑑》の葛の葉,《反魂香》の遠山,《娘道成寺》《石橋》など。(2)2世(1786-1855・天明6-安政2) 俳名三光,慶子。前名3世中村松江。1833年(天保4)富十郎を襲名。大坂の子供芝居から身をおこし,3世中村歌右衛門に師事して,やがて上方随一の若女方となった。大坂の難波(なんば)に住所があったので,俗に〈難波の太夫〉と呼ばれる。当り役は《妹背山》の雛鳥とお三輪,《吃又》のおとくなど。(3)3世(1859-1901・安政6-明治34) 俳名慶子。1886年に東京へ出て若女方として活躍。巨体のため世話物には不向きであった。(4)4世(1908-60・明治41-昭和35) 坂東彦十郎の三男。俳名楽水のち亀鶴。坂東亀の子,坂東一鶴,坂東鶴之助を経て,1943年富十郎を襲名。このとき《娘道成寺》の白拍子を演じて絶賛された。3世中村梅玉没後の上方の立女方で,《先代萩》の政岡には定評があり,新歌舞伎にも関心が深かった。(5)5世(1929-2011・昭和4-平成23) 4世の長男。坂東鶴之助,市村竹之丞を経て,1972年富十郎を襲名。
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百科事典マイペディア 「中村富十郎」の意味・わかりやすい解説

中村富十郎【なかむらとみじゅうろう】

歌舞伎俳優。屋号,天王寺屋。元来は上方歌舞伎の名跡。初世は吉澤あやめの三男〔1719-1786〕。四世〔1908-1960〕は二代目板東彦十郎の三男で東京に生まれる。板東鶴之助を襲名。1943年,四世を襲名し関西歌舞伎に転じる。立女形として三世市川壽海らと活躍するが,関西歌舞伎の停滞に抗せず,力を発揮できないまま急逝した。五世〔1921-2011〕は父四世富十郎,母,十五世市村羽左衛門の娘で舞踊吾妻流家元の吾妻徳穂。四世板東鶴之助を襲名。二世中村扇雀(現四世坂田藤十郎)とのコンビで上方で活躍,武智歌舞伎にも参加して古典の実験的解釈を学んだ。荒事から和事まで立方として数々の名演を残した。舞踊もよくし口跡にもすぐれ,近代の名優の1人に数えられる。94年,重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。

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