中東和平問題(読み)ちゅうとうわへいもんだい

改訂新版 世界大百科事典 「中東和平問題」の意味・わかりやすい解説

中東和平問題 (ちゅうとうわへいもんだい)

1948年のイスラエル独立以来続く,アラブ諸国とイスラエルの紛争およびイスラエルとパレスティナ人との紛争を解決しようとする試みをこのように呼ぶ。48年5月14日イスラエルが独立すると,周囲のアラブ諸国はユダヤ人国家の創設を阻止するためイスラエルに攻め込み,第1次中東戦争が始まった。中東戦争は,その後,56年,67年,73年に発生したが,戦争の犠牲,軍事費の重圧,米ソ対決の危険に加えて世界経済への深刻な影響も無視できなくなった。このため,73年の第4次中東戦争以後,アメリカが紛争の平和的解決に向けてイニシアティブをとるようになった。77年11月エジプトのサーダート大統領がイスラエルを訪問したのを機に,エジプト,イスラエル間に和平気運が高まり,78年9月のキャンプ・デービッド合意をへて,79年3月,エジプトとイスラエルは平和条約に調印した。第4次戦争のあと,国際世論はパレスティナ問題の解決なくして中東和平はありえないとの点で一致したが,この最初の平和条約はパレスティナ人の存在を素通りしたものであった。

 その後,中東はイラン・イスラム革命に揺れ,イラン・イラク戦争に注意を奪われる一方で,82年6月イスラエル軍がレバノンに侵攻し,パレスティナ・ゲリラの基地を一掃する作戦を展開した。パレスティナ人は追いつめられ,最終的にパレスティナ解放機構PLO)の指導部はチュニジアに落ちのびることになる。しかし,イスラエル占領下のパレスティナ人の不満はむしろ鬱積し,87年12月ついに爆発する。これがイスラエルを悩ませたインティファーダ(住民蜂起)である。

 91年10月マドリードで中東和平国際会議が開かれ,その結果,イスラエルとヨルダン,パレスティナ,シリア,レバノンの間に和平交渉が開始した。同時に地域の問題を扱う多国間交渉もスタートした。和平交渉は前途に多くの難問を抱えていた。エルサレム問題,占領地にイスラエルが建設した150以上の入植地,ゴラン高原の撤退問題,南レバノンのイスラエル軍の存在などである。こうしたなか,92年のイスラエル総選挙で労働党が政権に復帰した。93年に入ると,ノルウェーでイスラエル人とパレスティナ人が密かに会談を重ね,9月ついにイスラエルとPLOは相互承認に合意し,ワシントンで両者はパレスティナ暫定自治合意に調印した。翌94年5月にはガザイェリコの先行自治実施協定(カイロ協定)が調印され,その後もイスラエルとPLOは自治地域の拡大,ヘブロンからのイスラエル軍の撤退などで合意に達することになった。イスラエルとヨルダンの間にも94年10月平和条約が調印され,中東は一歩一歩平和に向かって前進した。ところが,これらの和平交渉はいずれも難問を先送りしたために,交渉の停滞は早晩避けられなかった。そのうえ,イスラエル,パレスティナ双方の根強い和平反対派が交渉の妨害に出て,95年イスラエルのラビン首相が暗殺され,また96年以降イスラエル国内で爆弾テロが続発するなど,中東和平の前途には依然として多くの障害が横たわっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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