朝日日本歴史人物事典 「中根忠吉」の解説
中根忠吉
生年:元治1.11.14(1864.12.12)
明治大正期の東京本所区徳右衛門町の釣り竿師。屋号竿忠。浅草安倍川町の釣り竿師釣音の子。父について修業した。のちに郡山藩のお抱え鞘師山野徳兵衛より刀鞘漆工法の秘伝を受け,釣り竿に「松皮塗り」「錆竹塗り」「煤竹塗り」などの新技法を取り入れる。また材料の伐り出しにも熱心で,常に竹林を探索し,翁竹や雀竹 などの新素材の発見にも努めた。その竿は釣り好きの垂涎の的であったという。「汗ふいて手拭おけば六十四生れかわつて又も竿師ぞ」の自作歌どおり,一生を修業で通した。「恩人が引き返した地点から上の山には登ってはならぬ」など,恩義を大切にした名人の生涯は,長谷川伸が戯曲『名人竿忠』のモデルとし,また講談や浪曲にもなった。3代松本三郎兵衛,釣治(のち竿治)石山治三郎と共に,明治三名人といわれた。<参考文献>中根音吉『竿忠の寝言』
(勝部直達)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報