中江兆民(読み)なかえちょうみん

精選版 日本国語大辞典 「中江兆民」の意味・読み・例文・類語

なかえ‐ちょうみん【中江兆民】

思想家。自由民権論者。高知県出身。名は篤介。号は青陵・秋水など。フランスに留学。仏学塾を開き、新しい学問・思想を教育。西園寺公望の「東洋自由新聞」主筆をつとめ、また自由党創設に参画、自由民権思想の啓蒙と専制政府の攻撃を行なう。門下に幸徳秋水がいる。著書に「三酔人経綸問答」、訳書に「民約訳解」など。弘化四~明治三四年(一八四七‐一九〇一

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「中江兆民」の意味・読み・例文・類語

なかえ‐ちょうみん〔‐テウミン〕【中江兆民】

[1847~1901]思想家。土佐の人。名は篤介とくすけ。フランスに留学し、帰国後仏学塾を開設。「東洋自由新聞」を創刊し、主筆として明治政府を攻撃し、自由民権運動の理論的指導者となった。ルソーの「民約論」を翻訳。著「三酔人経綸問答」「一年有半」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「中江兆民」の意味・わかりやすい解説

中江兆民 (なかえちょうみん)
生没年:1847-1901(弘化4-明治34)

明治期の思想家,評論家。土佐藩出身。本名は篤介。秋水などとも号する。父は足軽身分下横目役(下級警察吏)。幼少年時を過ごした家は土佐藩獄舎のある牢の町の長屋であった。志士の投獄や処刑を目撃するよりほかに維新の胎動を感じるすべのなかった彼をこの閉ざされた空間から解き放ったのは,維新の激動と自身の学問への熱意であった。1862年(文久2)広く民兵にも門戸を開放した藩校致道館の設置によって勉学の機会を得た彼は,65年(慶応1)には土佐藩留学生として長崎に派遣され,そこでフランス語を学ぶとともに坂本竜馬に出会う。67年江戸遊学の志を後藤象二郎の援助で果たし,村上英俊の達理堂に入塾,さらには箕作麟祥の下でフランス語を学んだ。68年(明治1)苗字を許され中江を名のる。69年大学南校の大得業生となり,翌年には大久保利通の斡旋で司法省出仕としてフランス留学を認められ,岩倉使節団とともに渡欧した。2年にわたる滞仏生活の後,帰国。東京外国語学校校長,元老院権少書記官を務める一方,仏学塾を開いてフランス学の普及を目ざした。77年1月元老院を辞し,以後ふたたび官職につかなかった。辞官後は仏学塾での研究教育とならんで高谷竜洲岡松甕谷,三島中洲らの漢学者の門をたたき漢学仏典の研究に専心した。81年西園寺公望らと始めた《東洋自由新聞》は,その後死ぬまで継続される藩閥政府批判と自由民権の確立のための言論活動の最初の舞台となった。

 思想家としての彼の特色は,西洋についての学識を単に知識として伝達啓蒙するだけでなく,一つ一つ伝統的思想の内部にある潜在的な要素とつきあわせ,その異同の吟味を通じて伝統思想の内側から普遍的価値に接近していこうとする態度をつくりあげた点にある。彼が〈東洋のルソー〉と称される機縁となった《民約訳解》(1882)はその代表的作品である。彼の〈民権至理也自由平等是れ大義也〉という確信は〈民権自由は欧米の専有に非ず〉とする認識と結びついていた。このことは非欧化主義的立場に対しても一定の共感と協働を可能にしたという点で,同時代の西欧派知識人にはない中江の大きな特色となった。また異論との対決が真理への道を進めるという確信から,藩閥政府に対しては言論の自由をはじめとする市民的自由の保障を求め,在野の政治運動に対しては地縁的閥族的結合を超えた旨義の自由な交流による結合を説いた。《三酔人経綸問答》(1887)はその思想的結実である。さらに独自の唯物論哲学に立った徹底した平等論から,いち早く〈新民世界〉(1888)と題する本格的な部落解放論を発表した。

 彼の政治活動は《東洋自由新聞》《自由新聞》《欧米政理叢談》,さらに保安条例による東京退去後は《東雲(しののめ)新聞》《立憲自由新聞》《自由平等経綸》等の新聞雑誌での言論を主としていたが,第1回総選挙には衆議院議員に当選し,民党合同と憲法点閲のために議院内外の活動に尽力したが,第1議会での予算案削減をめぐるいわゆる自由党土佐派の裏切りに憤激し議員を辞した。その後実業活動に入るが失敗。晩年にはしだいに政府との間で〈情意投合〉を求める政党にも絶望し,国権主義的性格の強い国民同盟会にも接近する。1900年喉頭癌で余命1年を宣告されてからはいっさいの社会活動から身を引き,自由な言論人,孤独な理学者という〈真我〉に立ち帰って《一年有半》《続一年有半》の2著を残した。ほかに訳著書として,《理学沿革史》《理学鉤玄》《維氏美学》《ルソー非開化論》《国会論》《四民の目さまし》等があり,《中江兆民全集》もある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「中江兆民」の意味・わかりやすい解説

中江兆民【なかえちょうみん】

明治の政治家,思想家。名は篤介(助)(とくすけ)。ほかに青陵・秋水と号。土佐(とさ)高知藩出身。1871年岩倉使節団とともに渡欧してフランス留学。1874年帰国し東京番町に仏学塾を開く。1881年西園寺公望の《東洋自由新聞》の主筆。1882年《政理叢談》を創刊し,ルソーの《社会契約論》を訳した《民約訳解》などを掲載し天賦人権論を説き,民権運動に大きな影響を与えた。1887年保安条例により東京から追放され大阪に移る。1890年第1回衆議院議員に当選,第1議会土佐派の裏切りを憤慨し辞任。その後実業活動に従事したが失敗。1898年国民党結成,1900年国民同盟会などに関係した。兆民は〈民権これ至理なり,自由平等これ大義なり〉と叫び,この至理大義のために生涯をかけた。著書《三酔人経綸問答》《一年有半》《続一年有半》など。
→関連項目幸徳秋水国民之友酒井雄三郎自由民権角藤定憲中江丑吉福地桜痴箕作麟祥

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中江兆民」の意味・わかりやすい解説

中江兆民
なかえちょうみん
(1847―1901)

明治時代の自由民権思想家。名は篤介(とくすけ)(篤助)、兆民は号。土佐藩足軽の子として高知に生まれる。藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)司法省から派遣されフランスへ留学。1874年に帰国し仏学塾を開く。東京外国語学校長、元老院権少書記官(ごんのしょうしょきかん)となるが、1877年辞職後は官につかなかった。1881年西園寺公望(さいおんじきんもち)らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談(せいりそうだん)』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介するほか、西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動に理論的影響を与えた。同年自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答(さんすいじんけいりんもんどう)』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞(しののめしんぶん)』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄(りがくこうげん)』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞(ぎまん)を嫌ったその率直闊達(かったつ)な行動は世人から奇行とみられた。無葬式、解剖を遺言して、明治34年12月13日に没した。

[松永昌三]

『『中江兆民全集』全17巻(1983~1985・岩波書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「中江兆民」の解説

中江兆民

没年:明治34.12.13(1901)
生年:弘化4.11.1(1847.12.8)
明治期の思想家,民権運動家。土佐(高知)藩の足軽元助と妻柳の子。高知城下に誕生。諱は篤助,通称竹馬。兆民は号。年少より学に親しみ,慶応1(1865)年,藩給費生として長崎に留学,フランス学に接し,土佐藩浪人坂本竜馬に私淑。3年,江戸に遊学,フランス学を習得,明治1(1868)年,箕作麟祥の塾に学び,大学南校(東京大学)でフランス学を講義。4年,岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留学生になり渡仏。哲学,文学,史学を学び7年帰国。東京に仏学塾を開業。8年,外国語学校校長。間もなく辞職し元老院権少書記官に転じたが,10年退職。仏学塾でルソーの『民約論』などを講義,民権思想の紹介に努めた。14年西園寺公望主宰の『東洋自由新聞』主筆。政府の掣肘で廃刊。15年,仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し西欧近代思想を紹介。ルソー著『社会契約論』の翻訳「民約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え,「東洋のルソー」と渾名された。19年大同団結運動に参加。20年『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析,展望を試みた。三大事件建白運動に関与,封事を執筆,12月保安条例で東京を追放され大阪で『東雲新聞』を創刊,主筆。23年7月,第1回衆議院議員総選挙に当選,立憲自由党に加盟,『立憲自由党新聞』の主筆。第一議会の予算問題で自由党土佐派が妥協したのを憤慨し議員を辞職。雑誌『自由平等経綸』を創刊。小樽の『北門新報』に招かれ渡道,26年大阪に戻り,種々の実業に手を出すが,失敗。30年国民党を結成したが不調。33年,国民同盟会に参加。翌年食道がんを発病,病床で合理主義・唯物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続一年有半』を執筆,遺稿となった。<著作>『中江兆民全集』全18巻<参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中江兆民」の意味・わかりやすい解説

中江兆民
なかえちょうみん

[生]弘化4(1847).11.1. 高知
[没]1901.12.13. 東京
思想家,自由民権論者。名は篤介,号は青陵,秋水,南海仙漁,木強生など。土佐藩の足軽の子に生れ,明治4 (1871) 年,政府留学生としてフランスに渡り,哲学,史学,文学を学ぶ。 1874年帰国,81年西園寺公望の『東洋自由新聞』の主筆。翌年『政理叢談』を発刊,深い哲学的考察に裏づけられたフランス流自由民権論を唱え,「東洋のルソー」と呼ばれた。 87年保安条例により東京から追放された。 89年帰京し,後藤象二郎と大同団結運動に参加,翌年自由党員として第1回衆議院議員に当選したが,同党土佐派の裏切りに怒って辞職,『民権新聞』を創立。 98年国民党を組織したが失敗,1900年頃近衛篤麿の国民同盟会に参加し,その意志に反して侵略主義と手を結んだ。晩年喉頭癌のため余命一年有半と医者からいわれ,『一年有半』 (1901) ,『続一年有半』 (01) を著わす。その他の著書に『民約訳解』 (1882) ,『三酔人経綸問答』 (87) ,『四民の目さまし』 (87) などがある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中江兆民」の解説

中江兆民 なかえ-ちょうみん

1847-1901 明治時代の思想家。
弘化(こうか)4年11月1日生まれ。江戸で箕作麟祥(みつくり-りんしょう)の塾にまなぶ。明治4年フランスに留学。帰国後,仏学塾をひらく。東京外国語学校長,ついで元老院権(ごんの)少書記官をつとめるが,10年元老院を辞し,以後在野で活躍。14年西園寺公望(きんもち)らと「東洋自由新聞」を創刊。15年ルソーの「社会契約論」を翻訳,注解した「民約訳解」を刊行。20年保安条例により東京を追放され,大阪で「東雲(しののめ)新聞」を創刊して,反政府,自由民権の論陣をはる。23年第1回総選挙で衆議院議員(翌年辞職)。晩年は実業にたずさわるが失敗し,著述に専念した。明治34年12月13日死去。55歳。土佐(高知県)出身。本名は篤介(助)。別号に南海仙漁,秋水,木強生。著作に「三酔人経綸(けいりん)問答」「一年有半」など。
【格言など】自由は取る可き物なり,貰う可き品に非ず(「放談」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「中江兆民」の解説

中江兆民
なかえちょうみん

1847.11.1/27~1901.12.13

明治期の自由民権思想家。高知藩の下級武士の家に生まれる。篤助・篤介と称し,のち兆民の号を使う。藩校文武館をへて,長崎・江戸でフランス学を学ぶ。1871年(明治4)岩倉遣外使節とともにフランスに留学し,法学・哲学などを学ぶ。74年帰国し,東京に仏学塾を設け,多くの学者・民権家を育成。翌年東京外国語学校長をへて,元老院権少書記官となるが,77年辞職。以後81年「東洋自由新聞」主筆,82年「自由新聞」社説掛としての言論活動や,ルソー「民約訳解」翻訳刊行により,自由民権運動に人民主権の理論を提供した。90年衆議院議員となるが,翌年土佐派議員の裏切りに憤慨して辞職。著書「三酔人経綸問答」「一年有半」。「中江兆民全集」全17巻,別巻1巻。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「中江兆民」の解説

中江兆民
なかえちょうみん

1847〜1901
明治時代の思想家
土佐藩出身。フランス留学後『東洋自由新聞』などにより急進的民権論を展開し藩閥政府を攻撃。ルソーの『民約論』を訳し解説を加え『民約訳解』として出版した。第1議会には自由党の代議士となったが民党の妥協を怒って辞任。のち実業界に入ったが失敗し,晩年は国権論的な国民同盟会に参加した。著書に『三酔人経綸問答』『一年有半』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中江兆民の言及

【一年有半】より

…1901年9月発行の中江兆民の遺著。彼は同年4月借金返済のため奔走中,大阪で発病し,食道癌により余命1年有半の〈死刑の宣告〉を受け,実業家に転身してから執ることもまれとなっていた筆を執り,残されたわずかな日々の生活と想いを綴ったのが本書である。…

【岩倉使節団】より

…1871‐73年(明治4‐6),特命全権大使岩倉具視を中心とした米欧回覧の使節団。その目的は,(1)幕末に条約を結んだ国への新政府による国書の奉呈,(2)上記条約改正への予備交渉,(3)米欧各国の近代的制度・文物の調査・研究であったが,(2)の問題では成功せず,もっぱら(1)と(3)を主として遂行した。使節団の首脳は,右大臣岩倉(公卿,47歳――出発当時の数え年,以下同)のほか副使に参議木戸孝允(山口,39歳),大蔵卿大久保利通(鹿児島,42歳),工部大輔伊藤博文(山口,31歳),外務少輔山口尚芳(なおよし)(佐賀,33歳)がなり,各省派遣の専門官である理事官や書記官など総勢50名に近い大使節団であった。…

【三酔人経綸問答】より

中江兆民著。1887年集成社から刊行。…

【東雲新聞】より

…明治時代の民権派の新聞。1888年(明治21)1月15日旧自由党員寺田寛や戸田猛馬らが1887年12月の保安条例で東京を追放された中江兆民を主筆に迎えて大阪で創刊した新聞。編集陣には栗原亮一や江口三省らを擁し,有力な政論新聞であった。…

【社会契約説】より

…社会契約説はなおベッカリーア,カント,若いフィヒテらによって採用されたものの,だいたいフランス革命の終了とともに理論的生命を失ったが,権利義務関係としての公的秩序という近代国家の機構の背景にはなお潜在しているといってよい。 日本では中江兆民によるルソー《社会契約論》の翻訳(《民約訳解》1882)に代表されるように,自然権の理論(天賦人権論)と結びついて,明治初年に紹介され,1880年ごろから盛んになった自由民権運動の一つの理論的支柱となった。しかし,国会開設,憲法制定の要求に対して,加藤弘之らが当時ヨーロッパにおいて優勢であった社会進化論的権利論を導入して批判を加えるに及んで,時代遅れの理論とされてしまい,明治憲法の欽定によって問題がいちおう決着したこともあって,社会契約説は理論的にも精神的にもついに根づくことができなかった。…

【中国】より

…おそらく偉大な文明,偉大な思想体系には,相反するものを同時に含んでいるようなところがあるのであろう。わが中江兆民は〈此の(民権自由の)理や漢土に在りても孟軻,柳宗元はやく之を覰破(しよは)せり,欧米の専有に非ざる也〉といい,ルソー,柳宗元を併称しているし,兆民の弟子幸徳秋水ははっきり社会主義者となったのちにも,仏教よりも神道よりも,とりわけ耶蘇教よりも〈予は儒教を好む〉と明言し,かつ自分を社会主義に導いてくれた書物の第一に《孟子》を挙げている。《孟子》の人民主義は君主をみとめているので真の人民主義ではない,民本主義にすぎないという説があるが,納得できない。…

【東洋自由新聞】より

…1881年(明治14)3月18日創刊された日刊新聞。フランスに遊学し自由主義思想に触れた公卿西園寺公望(さいおんじきんもち)が社長,中江兆民が主筆を務めた。おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し,とくに,中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。…

【部落解放運動】より

…しかし,自由民権運動の側は部落問題をみずからの主要な課題とするにはいたらなかった。その中で,中江兆民は88年に《新民世界》を書き,民主主義と平等社会の実現における部落解放の意義を明らかにし,近代の部落解放思想の一源流となった。兆民は90年,大阪の被差別部落の後援をも受けて,第1回衆議院議員総選挙に当選した。…

【民約訳解】より

…J.J.ルソー《社会契約論》の中江兆民による漢文訳。兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に原著の第2編第6章まで訳載され,その後中断したまま終わっている(第1編のみ1882年単行本として出版)。…

※「中江兆民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android