丸山城(読み)まるやまじょう

日本の城がわかる事典 「丸山城」の解説

まるやまじょう【丸山城】

三重県伊賀市にあった城。伊賀盆地中央部の独立丘陵・丸山(標高213m、比高20~60m)に築かれていた城である。丸山城や丸山の名前は、この丘陵が丸い形をしていたことに由来する。織田信長の二男信雄を北畠家の養嗣子として迎え、信雄に家督を譲り、自分は隠居することで和睦した北畠具教が1575年(天正3)、隠居城として丸山城の築城を決め、その翌年には着工した。しかし、具教と信長の関係が険悪になったために工事を中断し、具教は三瀬館(具教の隠居所、多気郡大台町)に引き上げた。伊勢国を掌握した北畠(織田)信雄は、伊賀国の領国化をはかった。その一環として、信雄は1578年(天正6)、家臣の滝川雄利に、未完の丸山城の築城の再開と修築を命じた。同城築城中の1578年(天正6)、織田氏の伊賀国支配を嫌った同国の土豪・郷士が築城を阻止しようと丸山城を襲撃した。不意をつかれた滝川雄利の軍勢や人夫が伊勢国に敗走した。翌年、北畠信雄は8000の兵を率いて三方から伊賀国に侵攻したが、伊賀の国人はこれを撃退した。これは第一次天正伊賀の乱と呼ばれている。信雄の敗戦に激怒した信長は1581年(天正9)、北畠信雄を総大将とした5万の兵力で伊賀国に侵攻させ、伊賀国を制圧した(第二次天正伊賀の乱)。その後、滝川雄利は丸山城の築城を再開させた。完成した丸山城は、丸山(城山)の最高地点(標高213m)に石垣の天守台が設けられて3層の天守がつくられ、丘陵全体に大小の曲輪(くるわ)を配置した、同地域最大規模の城だったといわれる。また、丸山城とは比自岐川をはさんだ対岸に滝川三郎兵衛城、嵯峨尾主馬城とよばれる小規模城郭がつくられた。丸山城の廃城の時期や経緯は不明。滝川雄利が丸山城の城主をつとめたともいわれるが、信長の死後織田信雄豊臣秀吉の対立による緊張が高まってきた1584年(天正12)に、滝川雄利は伊賀国から伊勢国に移り、松ヶ島城の城主となった。これにともない、丸山城は廃城になったのではないかともいわれる。これとは別に、同城築城中に伊賀の国人から襲撃を受けた1578年(天正6)に、工事が中止され廃城になったのではないかという説もある。現在、城跡には天守台、櫓(やぐら)台、土塁、堀切、出丸の遺構が残っている。伊賀鉄道伊賀線丸山駅から徒歩約20分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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