丸橋忠弥(読み)マルバシチュウヤ

デジタル大辞泉 「丸橋忠弥」の意味・読み・例文・類語

まるばし‐ちゅうや【丸橋忠弥】

[?~1651]江戸前期の浪人。出羽の人という。宝蔵院流の槍術にすぐれ、江戸に道場を開く。由井正雪と共謀して慶安の変を企てたが、事前に発覚して処刑された。
歌舞伎狂言樟紀流花見幕張くすのきりゅうはなみのまくばり」の通称

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改訂新版 世界大百科事典 「丸橋忠弥」の意味・わかりやすい解説

丸橋忠弥 (まるばしちゅうや)
生没年:?-1651(慶安4)

江戸前期の浪人。慶安事件の参加者の一人。俗書では出羽の人とするが,下級幕臣の子であったと思われる。一時加賀前田氏の家臣に奉公していた。宝蔵院流の槍の達人で,江戸御茶ノ水に道場を開いていた。1651年由比正雪幕府に対する謀反計画に加わり,江戸城攻撃を受け持つが,訴人があって,同年7月23日捕らえられ,8月10日品川の刑場で磔刑(たつけい)に処せられた。
執筆者: 実録本《油井根元記》(1682年序),《慶安太平記》(幕末成立)などのほか,講談でも早くから事件を潤色,丸橋忠弥は主要人物の一人として描出された。事件の性質上,劇化などにあたっては幕府をはばかり,丸橋の名は〈角屋秋夜〉(浄瑠璃《尼御台由井浜出(ゆいがはまいで)》1729年2月),〈丸谷弥忠太〉(歌舞伎《けいせい富士見ル血文》1752年2月)など,虚構の人物に仮託され,なかでも浄瑠璃《太平記菊水之巻》(1759年9月),《碁太平記白石噺(しろいしばなし)》(1780年1月)の〈鞠ヶ瀬秋夜〉の名が太平記中の人名として仮用されて人口に膾炙(かいしや)した。明治期には解禁されたが,《樟紀流花見幕張(くすのきりゆうはなみのまくばり)》(1870年3月守田座,河竹黙阿弥作)でも初演時には〈鞠ヶ瀬秋夜〉として登場,この作は初世市川左団次の当り狂言となり,ことに堀端酔態捕物大立回りの場が評判となった。ほかにも真山青果作《学者千石槍千石》(1940,未完)があり,偏狭な性格の人物として描かれる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「丸橋忠弥」の意味・わかりやすい解説

丸橋忠弥
まるばしちゅうや
(?―1651)

江戸時代の牢人(ろうにん)。正しくは忠也。一玄居士(いちげんこじ)と号す。慶安(けいあん)事件首謀者の1人。江戸・お茶の水で宝蔵(ほうぞう)院流槍(そう)術の道場を開いていたが、由比正雪(ゆいしょうせつ)から誘われて反幕府の陰謀に加担。江戸城攻撃を受け持ち、門人や牢人を語らって準備を進めたが、内偵と密告によって発覚して捕らえられ、品川で磔刑(たっけい)に処せられた。門人に守られた槍(やり)の達人である忠弥を捕らえるため、軽率な性格につけこんで、道場の外で「火事だ」と騒ぎ、見に飛び出してきたところを捕縛したという話はかなり早くから流布していた。文芸作品では幕府をはばかり、1759年(宝暦9)『太平記菊水之巻』、1780年(安永9)『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)』などでは鞠ヶ瀬秋夜(まりがせしゅうや)の名で登場している。いわゆる『慶安太平記』のなかで本名で定着したのは、江戸城の堀に石を投げ込んでその深さを測る堀端の場で著名な1870年(明治3)『樟紀流花見幕張(くすのきりゅうはなみのまくばり)』以降のことである。

[高木昭作]

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朝日日本歴史人物事典 「丸橋忠弥」の解説

丸橋忠弥

没年:慶安4.8.10(1651.9.24)
生年:生年不詳
江戸前期の浪士。慶安事件の首謀者のひとり。出羽山形の人といわれるが,諸説があり,長宗我部盛親の落胤説もある。宝蔵院流の槍術家として御茶ノ水に道場を構え,神田で塾を開いていた軍学者由比正雪と幕府転覆の謀反を計画,江戸における蜂起の指揮者となった。謀議は密告によって発覚,慶安4(1651)年7月23日,江戸で捕縛され,同年8月10日,鈴ケ森の刑場で母や兄らと共に磔に処せられた。事件はのちに劇化され,『けいせい由来記』(1757)に丸樫忠太,「太平記菊水之巻」(1759)に鞠ケ瀬秋夜の名で登場。庶民の屈折した共感もあって,浪曲「慶安太平記」は木村派の代表的な演目となった。

(橋本勝三郎)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「丸橋忠弥」の意味・わかりやすい解説

丸橋忠弥
まるばしちゅうや

[生]?
[没]慶安4(1651).8.13. 江戸
江戸時代前期,慶安事件の首謀者の一人。出羽山形の人。名は盛澄。通称,忠弥,正しくは忠也。宝蔵院流槍術の達人で江戸御茶の水に道場を開いていた。慶安4 (1651) 年由井正雪らとともに江戸幕府覆滅の陰謀をはかり,江戸城襲撃を担当する手はずであったが,密告により事前に発覚,町奉行石谷 (いしがや) 貞清によって逮捕され,品川で磔刑に処された。この事件は浄瑠璃,歌舞伎狂言などに劇化され,特に『慶安太平記』は忠弥をはなばなしく描いている。

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百科事典マイペディア 「丸橋忠弥」の意味・わかりやすい解説

丸橋忠弥【まるばしちゅうや】

江戸前期の慶安事件の首謀者の一人。槍術の達人。俗書では出羽(でわ)の人とされるが,下級幕臣であったと思われる。江戸御茶の水に道場を開いた。1651年由比正雪らと江戸幕府倒壊を計画,江戸城攻撃を受け持つが事前に露見し,処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「丸橋忠弥」の解説

丸橋忠弥 まるばし-ちゅうや

?-1651 江戸時代前期の武士。
江戸御茶ノ水で宝蔵院流槍術(そうじゅつ)の道場をひらいた浪人。出自は不明。慶安4年由比正雪と幕府転覆をくわだてて捕らえられ,8月10日品川鈴ケ森で磔(はりつけ)となった(由比正雪の乱)。講談,歌舞伎,浄瑠璃(じょうるり)などにとりあげられ有名となる。名は盛澄(もりずみ)。
【格言など】雲水のゆくへも西のそらなれや願ふかひある道しるべせよ(辞世)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「丸橋忠弥」の解説

丸橋忠弥
まるばしちゅうや

?~1651.8.10

江戸初期の慶安事件の首謀者の1人。槍術の達人。江戸お茶の水に道場を開く。1651年(慶安4)由比正雪らと倒幕を計画したが,事前に密告者が出て捕縛された。忠弥,兄の加藤市郎右衛門,母,親類を含めた30人余が品川で磔刑となった。浄瑠璃・歌舞伎などの題材とされ,初代市川左団次の当り役となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「丸橋忠弥」の解説

丸橋忠弥
まるばしちゅうや

?〜1651
江戸前期の牢人で,慶安事件の首謀者の一人
宝蔵院流の槍の達人で,江戸お茶の水に道場を開いた。1651年由井正雪の反幕府の陰謀に参加したが,未然に発覚して捕らえられ磔刑となった。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「丸橋忠弥」の解説

丸橋忠弥
(通称)
まるばしちゅうや

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
けいせい由来記 など
初演
宝暦7.1(大坂・姉川座)

丸橋忠弥
まるばしちゅうや

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治28.2(東京・新盛座)

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世界大百科事典(旧版)内の丸橋忠弥の言及

【慶安事件】より

…1651年(慶安4)7月に発覚した浪人らによる幕政批判の騒擾(そうじよう)事件。首謀者は由井正雪丸橋忠弥,金井半兵衛,熊谷市郎兵衛ら。慶安の変,由井正雪の乱ともいう。…

※「丸橋忠弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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