丹後国(読み)タンゴノクニ

デジタル大辞泉 「丹後国」の意味・読み・例文・類語

たんご‐の‐くに【丹後国】

丹後

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日本歴史地名大系 「丹後国」の解説

丹後国
たんごのくに

古代

〔国の成立〕

丹後国のおかれたのは和銅六年(七一三)のことで、「続日本紀」同年四月三日条に「割丹波国加佐、与佐、丹波、竹野、熊野五郡、始置丹後国」とあって、以後の丹後五郡にほぼ合致している。「和名抄」高山寺本に「太邇波乃美知乃之利」と訓じられる。また同書刊本に「田四千七百五十六町百五十五歩、本頴四十三万千八百束」とする。この丹後の地を丹波と称した史料の初見は、藤原宮出土木簡の「丙申年七月旦波国加佐評□□」「丹(波カ)国加佐郡(中略)和銅二年四月」「旦波国竹野評□□里大贄布奈□」等である。

丹後国成立以前のこの地のことは「丹後国風土記」逸文や記紀、「倭姫命世記」、海部氏系図(海部穀定家蔵)などによって一部は知りえても不明のところが多い。風土記逸文奈具社なぐのやしろ天椅立あまのはしだて浦嶼子うらしまこなどの伝承をのせ、奈具社は丹波たには(中郡)と竹野郡、後二者は与謝郡に関係の深い伝承である。「古事記」には、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の娶った竹野比売は旦波たにはの大県主由碁理の女である、また開化の子日子坐王の子丹波比古多多須美知能宇斯王は丹波の河上かわかみ(熊野郡の川上とされる)の摩須郎女を娶って大帯日子淤斯呂和気(景行天皇)の母にあたる比婆須比売命を産んだという話が載る。「日本書紀」には、垂仁天皇は同天皇の一五年春二月丹波道主王の五人の女をしたが、その五人目を竹野媛といい「形姿醜きに因りて」丹波に返されたとしている。第一の日葉酢媛は皇后となって景行天皇を産み、倭姫命を産んだ。倭姫命については「倭姫命世記」に次のようにある。

<資料は省略されています>

また「日本書紀」顕宗天皇(弘計天皇)前紀に

<資料は省略されています>

と述べる伝承は、今も丹後の各地に伝えられる。

海部氏系図は始祖彦火明命より海部直田雄に至る直系の歴代を一筆に掲げ、書写年代は平安前期を下らないとされる。大和朝廷に豪族として仕えた時代を「此若狭木津高向宮海部直姓定賜楯桙賜国造仕奉品田天皇御宇」と記していて「海部直」を称し、次いで律令国家のなかでこの神社(現宮津市)に仕える祝として海部直某祝と称する時代が続いている。

〔律令制時代〕

奈良の東大寺と丹後の関係は、天平勝宝元年(七四九)奴婢進上(「丹後国司解」正倉院文書)、同四年封戸施入(「造東大寺司牒」同文書)など早くからみられるが、平安時代に入っても寛平年中(八八九―八九八)「合」銭四七貫三〇八文の封物(「東大寺諸国封物来納帳」東南院文書)、天暦四年(九五〇)竹野郡網野郷封戸(「東大寺封戸荘園并寺用帳」同文書)、長久五年(一〇四四)丹後国前雑掌海成安の愁状(「丹後国前雑掌海成安解」同文書)などがみられ、丹後が東大寺と関係を持続したさまがうかがわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「丹後国」の意味・わかりやすい解説

丹後国 (たんごのくに)

旧国名。丹州。現在の京都府北部。

山陰道に属する中国(《延喜式》)。日本海に接し,大陸・半島と近いため,早くから文化がひらけた。弥生時代の京丹後市の旧久美浜町函石浜遺跡からは新(中国)の王莽(おうもう)の貨泉が出土しており,すでにこの時代から大陸文化の影響をうけていた。古墳時代になっても,与謝野町の旧加悦町蛭子山古墳,作山古墳,京丹後市の旧丹後町神明山といった大和などに匹敵する古墳が営まれており,先進的な文化地域であったことがわかる。丹後の古代を語るとき,忘れられないのは水江浦島子の伝説である。俗にいう浦島太郎の話で,丹後以外にも多く分布するが,伊根町宇良(うら)神社をその故地と伝えている。顕宗天皇は即位前に宮廷の内紛を避けて与謝郡に逃げたともいい,浦島子伝説とあわせて真偽はともかく丹後国独自の文化を発展させながら大和政権のそれをも吸収していたことが知られる。ただし,以上の時代にはいずれも丹後国は丹波国の一部分であり,正確には713年(和銅6)丹波国から加佐,与謝,丹波,竹野,熊野の5郡が分割されて丹後国となったときにはじまる。国名の丹後は大和からみて丹波の後方であるという意味であるが,丹波の国名のもととなる丹波郡は丹後に入れられており,旧丹波国の中心はむしろ丹後地方であった可能性が高い。なお《和名類聚抄》では,丹後は〈たにはのみちのしり〉と訓(よ)まれている。国府・国分寺は現宮津市府中にあったといわれている。5郡で構成された同国は,山陰道では隠岐国の4郡についで少ない。《和名類聚抄》に記された田数も4700町余で,これも隠岐国についで少ない。のちに日本三景の一とされる天橋立もすでに風土記にみえており,名勝として親しまれた。小式部内侍の〈大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立〉の歌は有名である。
執筆者:

鎌倉期の当国守護職は史料・徴証に欠けほとんど判明しない。わずかに1293年(永仁1)に大江修理亮が丹後一国棟別徴収の施行を指示しており,当時長井某が守護であったことが判明している。中世の荘園としては西大寺領志楽(しらく)荘,東寺領吉囲(よしい)荘,久我家領椋橋(くらはし)荘,朽木家領与保呂村,長福寺領河上本荘,石清水八幡宮領鹿野荘等がある。なかんずく志楽荘,椋橋荘,河上本荘は室町中期まで本所の荘園支配が直務で行われたため史料が比較的多く残存しており,守護の遵行(じゆんぎよう)・打渡(うちわたし)状等から守護支配の実態をもうかがえて貴重である。以上のほか皇室領として吉田荘本家職が八条女院領,宮津荘・田村荘・久美荘等は長講堂領として所見があるが,史料は断片的で在地構造等は判明しがたい。

 南北朝期に入ると,室町幕府は初代守護に上杉朝定を補任し,その本拠丹波何鹿(いかるが)郡上杉郷を含む何鹿郡を丹波から切り離して丹後守護の分郡とした。その後一時但馬に地盤をもつ今川頼貞を守護としたが,康永(1342-45)ころに山名時氏が丹波・丹後両国守護を兼管し,以後南北朝後期までおおむね丹波守護またはその一族が当国守護に補される例が多かった。仁木頼章,高師詮,仁木頼勝,山名師義,同義幸,同満幸がすなわちそれである。その間1363年(正平18-貞治2),幕府は南党山名時氏の帰参を機に,時氏の旧主足利直冬を丹波・丹後両国守護に補任するが,直冬は徹底抗戦を叫んで幕命を肯んぜず,やむなく幕府は山名時氏に両国を兼帯させた。さて山名氏は幕府帰参時に5ヵ国の分国を有していたが,康暦の政変,美濃の乱等幕府の内訌ごとに巧妙に立ち回り,ついに南北朝末期には隠岐を含む分国12ヵ国,侍所頭人兼帯という空前の大大名にのし上がり,将軍足利義満の牽制策に挑発されて明徳の乱を引き起こす。その張本人は当国守護の山名満幸といわれ,この叛乱をいち早く幕府に通報したのも当国の国人結城十郎満藤で,乱後の論功行賞で当国守護に隣国若狭の一色満範がなり,結城満藤は摂津欠郡守護に補された。しかし当国の守護支配はなお安定せず,満範の孫義貫は将軍足利義教から疎まれ,1440年(永享12)大和の陣中で幕命により暗殺され,当国守護は伊勢守護家の一族一色教親に与えられた。しかし教親・義直父子の丹後支配も束の間で,応仁の乱になると義直が西軍にくみしたため守護職は剝奪され,当国は3分割されて若狭武田氏,幕府評定衆摂津之親,摂津欠郡守護細川持賢らに与えられ,ここに一色氏の守護支配は瓦解したのである。一色氏が再び当国守護に還補されるのは応仁の乱後,義直が幕府に帰参してからであった。

室町期における荘園,国人の分布を最もよく物語るのは長禄年間(1457-60)編纂と伝える《丹後国田数帳》で,同帳によれば当国最大の領主は300町歩を有した幕府政所(料所),次いで守護代延永氏,細川成之,政所被官三上氏,西大寺,等持院,実相院等となっている。幕府料所のうち,比較的支配の実態がうかがえるのは与謝郡筒川保(つつかわのほ)で,ここは評定衆二階堂氏の代官請負が行われていた。中世では名勝天橋立がようやく諸国に喧伝され,早く《慕帰絵詞》(南北朝期)に描かれたが,応仁の乱後には画僧雪舟が不朽の名作《天橋立図》を残し,智恩寺は九世戸文殊(くせどもんじゆ)の名で天下に知られ,将軍義満らもしばしば参詣した。宇良神社の《浦嶋明神縁起》も当地に残る中世絵巻の遺品として貴重なばかりか,浦島伝説の普及や田楽の流行を物語る資料として興味深い。

 戦国期の当国は守護一色氏に関する史料がきわめて乏しい反面,《丹後国御檀家帳》によって同氏の戦国大名支配の構造がよくうかがわれる。すなわち一色一族のうち数名の〈殿様〉を有力拠点に,国人が奉行,一家,御内,おとな等に編成されて,各地の城郭に拠っていたと推定される。各地における〈市場〉の成立も判明するが,まだ都市らしき機能をもつ町は出現していなかったようである。なお当国の守護所も判明しないが,最末期は普甲山城(現,宮津市),阿弥陀峰城,弓木(ゆみのき)城(現与謝野町,旧岩滝町)あたりと推定されている。ほかに有力城郭として加佐郡椋橋城,与謝郡亀山城,中郡峰山城,由良城,田辺城,奥山城,八幡山城等が挙げられる。一色氏の末期は南方丹波から内藤氏,松永氏,赤井氏らの勢力が侵略し,海上からは尼子氏の勢力が侵入し,加悦(かや)谷方面からは丹波氷上郡の荻野直正らの軍事力が犯しつつあって,一色氏の支配は必ずしも安定していなかった。また当国の水軍は田辺城を拠点とし,尼子氏再興の挙にも参加したことが判明している。天正年代(1573-92)に入って織田信長の軍団の浸透が激化し,1580年には細川藤孝が八幡山城に入部,各地を平定して検地を実施し,82年には一色氏最後の当主を謀殺して丹後を制圧した。室町・戦国期の当国は,鎌倉期に一遍智真が一時滞在して以降,時宗の隆盛が著しく,妙立寺を中心に教線を拡大,日蓮宗,禅宗もまた独自の布教で民衆に浸透している。
執筆者:

1582年織田信長の命を受けた細川藤孝・明智光秀の連合軍が,一色氏を滅ぼして丹後国を平定した。これより2年前藤孝・忠興父子は宮津に入って,浜に新城を築いていた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後忠興は豊前中津へ転封し,京極高知が入封して田辺城に入った。高知は02年丹後5郡292ヵ村の検地を行い,その総高は12万3175石(慶長検地郷村帳)であった。検地帳は写本も含めて現在83ヵ村のものが残存している。22年(元和8)高知の死後,丹後は宮津(7万8175石,長子高広),田辺(3万5000石,次子高三),峰山(1万石,養子高通)と3藩に分けられた。年貢高については,宮津藩は延宝年間(1673-81)に平均3割高の延高をしたが,田辺・峰山藩は近世を通じて大きな石高の変動はなかった。宮津藩領は京極氏以降,天領-永井氏-天領-阿部氏-奥平氏-青山氏と支配が変遷したが,1759年(宝暦9)遠江の浜松より本庄氏が入部し,以来7代相ついで廃藩となった。田辺藩は1668年(寛文8)京極高盛が但馬豊岡へ転封のあとへ,摂津より牧野親成が入封し10代を経て廃藩となり,峰山藩は京極氏(12代)で一貫した。宮津藩のように青山氏4万8000石,阿部氏9万9000石と石高に大きな違いがあった場合,藩主の知行高に合わせるために,藩領の村々を一時他の天領に編入させたり,また復帰させたりすることがあった。天領となったものは,はじめは但馬生野代官所,近江大津代官所,京都二条陣屋などに属した。1717年(享保2)青山氏入封のとき削られた4万2020石と,以前からの天領を合わせて,湊宮陣屋が設けられたが,のち久美浜に移されて久美浜代官所となった。丹後にはそのほかに竹野郡・熊野郡の一部21ヵ村が,但馬出石(いずし)藩に編入されたことがあった。

特産物として1638年(寛永15)の《毛吹草》丹後の項に,蒲黄,胡麻,葛籠,撰糸,紬,切門文珠貝,伊禰浦鰤,鰯,老海鼠,海鼠,目指,沖嶋隼,久美海松,内堅苔,河守矢根があげられている。このほか地域の生産物をうかがう資料として貢納物をみると,田辺藩では米のほかに鍛冶炭代米,木売役米,肴米,塩浜年貢,竹皮,奉書,塩浜,鯉網,鳴子網,唐網,請藪,雉子,渋柿,鮭,入木,塩,端折紙,小奉書,青梅,栗,山椒,煎海鼠,大豆,胡麻,麻苧,真綿,茶,桐実など,峰山藩では忍冬花,真綿,麻苧,渋柿など,久美浜代官所領では藍,紅花,麻,桑,漆,楮,茶などがあった。由良川・野田川などの流域や海岸地帯の村々では,〈田分け〉と称する田地の割替が広範囲に行われ,割替の期間は5~20年,定期,不定期とさまざまであった。なかには伊禰浦(いねうら)3ヵ村(日出・平田・亀島。現,与謝郡伊根町)のように漁業株と田株を合わせて編成したものもあった。この制度は明治初年の土地私有制度の施行とともに大部分消滅した。

 丹後縮緬(ちりめん)の創業地は,与謝郡加悦谷地方(現与謝野町,旧加悦町・旧野田川町)と中郡峰山(現京丹後市,旧峰山町)の2ヵ所で,いずれも1720年ころ京都西陣より技術を修得し副業として始めたが,その普及は著しく,文久年間(1861-64)には869機を数えた。企業の規模はいずれも零細で,掛機・歩機のかたちで親方機屋に依存していた。宮津藩・峰山藩は縮緬を〈御国産〉として,保護・統制を加えるため1819年(文政2)中郡大野村(現同市,旧大宮町)に大会所を設けたが,その後峰山藩が脱退したため機能を果たせなかった。長い海岸線をもつ丹後沿岸の漁業は相当早くから開けていたと考えられるが,1600年田辺籠城のとき,宮津・田辺の漁師が細川藤孝を宮津城から田辺城へ無事送り届けた恩賞として,波打際三間漁業自由の特権を与えられたという。また漁獲物は,ブリ,カツオ,アジ,トビウオ,カレイ,タイ,タラなどで,漁具も刺網,延縄,地引網などが使われた。伊禰浦3ヵ村,加佐郡田井村(現,舞鶴市)などのブリ漁はもっとも盛んで,特に伊禰浦では鰤株を中心に株組織が形成され,共同漁業の制が作られた。このほか由良川のサケ漁,丹後半島北部海岸で行われた海女の潜海漁業も注目すべきものである。

文化学術に功績を残した人に,まず医学者新宮凉庭があげられる。加佐郡由良村(現,宮津市)の出身で長崎で蘭学を学び,1839年(天保10)京都東山に順正書院を開き,多数の医学生を育てた。田辺藩の漢学者野田笛浦(てきほ)は,執政までつとめ文政に力を尽くした。宮津藩の小林玄章は天野房成らと《宮津府志》を編纂し,さらに藩の抱え絵師佐藤正持を伴って丹後全体を踏査して《丹哥府志》の編纂に尽くした。このほか俳人・画家の与謝蕪村(ぶそん)は,1755年(宝暦5)ころ母の郷里与謝郡宮津に寄寓した。

 百姓一揆は宮津藩領が最も多く,1654年(承応3)の算所村(現与謝野町,旧加悦町)逃散(ちようさん)をはじめ,81年(天和1)大飢饉に全領内の大庄屋が陳情訴願,1714年(正徳4)大庄屋が団結して藩政改善訴願要求,そして最後に1822年(文政5)〈万人講〉と称する人頭税と1万5000俵に及ぶ追先納代銀に対する不満から大一揆が起こった。田辺藩でも,1733年(享保18)と56年に定免引下げ,農料米払下げなどを要求して全藩的に大一揆が発生した。

 1868年(明治1)幕府領(久美浜代官所支配地)は新政府直轄地として久美浜県に属し,翌年版籍奉還によって田辺藩が舞鶴藩と改名した。71年廃藩置県で舞鶴藩は舞鶴県,宮津藩は宮津県となり,同年11月久美浜県,舞鶴県,宮津県は豊岡県に編入したが,76年8月京都府となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「丹後国」の意味・わかりやすい解説

丹後国
たんごのくに

京都府北部の旧国名。山陰道に属す。『和名抄(わみょうしょう)』には「たにはのみちのしり」と記す。713年(和銅6)丹波(たんば)国から加佐(かさ)、与佐(よさ)、丹波、竹野(たかの)、熊野(くまの)の5郡を割いて丹後国を置いた。藤原宮出土木簡に、加佐評(こおり)、与射(よさ)評、竹野評の語がある。丹後の古い時代の出土遺物に有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)がある。縄文時代遺跡は海岸・古砂丘上に、続いて弥生(やよい)時代には海岸部から内陸部へ広がり、北九州との関連性の強いものから畿内(きない)色の濃いものに変化し、漸次丹後の地域色が目だってくる。古墳時代前・中期には大型前方後円墳を残している。『丹後国風土記(ふどき)』には、奈具(なぐ)社(羽衣(はごろも)、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)伝承)、天椅立(あまのはしだて)、浦嶼子(うらしまこ)などの伝承を載せる。『古事記』『日本書紀』には、開化(かいか)・垂仁(すいにん)天皇がこの地の支配者の娘をめとった伝承を載せている。『和名抄』は国府を加佐郡とするが、与謝(よさ)郡府中(宮津市)にあったことも事実である。宮津市国分(こくぶん)には国分寺遺跡(国史跡)がある。式内社総計65座のうち、竹野川流域には豊受(とようけ)大神を祀(まつ)るものが多い。各地に奈良期創建の寺伝をもつ密教寺院が多い。荘園(しょうえん)には志高(しだか)荘、志楽(しらく)荘、吉囲(よしい)荘(加佐郡)、宮津荘(与謝郡)ほか各地に長講堂領、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領などが平安末期から鎌倉初期にみられる。

 南北朝期以降、中世の丹後守護職(しゅごしき)は上杉氏以下幾変遷があったが、1392年(元中9・明徳3)一色満範(いっしきみつのり)に移り、以後は一色氏が守護の名目のいかんを問わず丹後を支配した。その間若狭(わかさ)武田方との間に何度か攻防があった。1578~79年(天正6~7)織田信長は明智光秀(あけちみつひで)、細川藤孝(ふじたか)・忠興(ただおき)らに丹後平定を命じ、80年以降細川氏は丹後を領有した。関ヶ原の戦い以後京極高知(きょうごくたかとも)が入部、丹後一国12万3000石を領したが、その没後は宮津藩7万8200石、田辺(たなべ)藩3万5000石(舞鶴(まいづる)市)、峰山(みねやま)藩1万3000石の3領に分かれた。のち久美浜(くみはま)代官所が置かれ、丹後・但馬(たじま)両国の幕領6万7000石余を管理した。藩主は、峰山は京極氏、田辺は京極氏3代ののち牧野氏が幕末まで続いたが、宮津は京極、永井、阿部、奥平、青山、本荘(ほんじょう)(松平)と変遷が多かった。1871年(明治4)廃藩で豊岡(とよおか)県となり、76年京都府に編入。

 丹後縮緬(ちりめん)は、享保(きょうほう)(1716~36)以降丹後の特産に成長した。また田辺、宮津、岩滝(与謝郡)は西廻(にしまわり)航路の発達に伴って栄えた。

[中嶋利雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「丹後国」の意味・わかりやすい解説

丹後国
たんごのくに

現在の京都府北部。山陰道の一国。中国。もと丹波国の一部であったが,和銅6 (713) 年分割されて一国となった。『丹後国風土記逸文』には水江浦島子 (みずのえのうらしまこ) の伝説があり,その舞台が与謝 (よさ) 郡日置 (へき) 里となっている。これは後世の浦島太郎の説話の元をなすものである。国府は宮津市といわれるが詳細は不明。国分寺は宮津市国分。『延喜式』には加佐,与謝,丹波,竹野 (たかの) ,熊野の5郡があり,『和名抄』には郷 35,田 4756町が記されている。日本海に面し古くから大陸との関係が深かったことは京丹後市の函石浜遺跡から中国,新朝の王莽 (おうもう) の貨泉が出土したことからも推測できる。平安時代にも貞観5 (863) 年新羅人が,延長7 (929) 年渤海国使が来着したことが記録されている。鎌倉時代,守護は承久3 (1221) 年頃北条氏一族が在任し相伝したが,遅くとも嘉元4 (1306) 年以降は六波羅探題南方の兼任となった。室町時代には山名氏が,のち一色氏が守護となった。織田信長の時代には一色氏から長岡氏に変わり,豊臣秀吉の時代には細川 (もと長岡氏を称する) 藤孝 (幽斎) が領し,のちその子忠興が跡を継いだ。江戸時代には慶長5 (1600) 年京極氏が 12万 3000石で領したが,のち宮津,峰山,田辺の3藩に分かれ,寛文6 (66) 年には,宮津藩主京極高国が所領を没収されて陸奥に流され,同8年には牧野氏が田辺藩主,宝暦8 (1758) 年には松平氏が宮津藩主となる。松平氏はのち本庄氏を称した。峰山には京極氏が封じられて幕末にいたった。明治維新を経て明治4 (1871) 年7月各藩はそれぞれ県となったが,11月豊岡県に併合され,1876年8月京都府に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「丹後国」の解説

たんごのくに【丹後国】

現在の京都府北部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陰道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに宮津(みやづ)市におかれていた。鎌倉時代には六波羅探題(ろくはらたんだい)が治め、南北朝時代から室町時代守護一色氏、山名氏、再び一色氏だった。織田信長(おだのぶなが)細川幽斎(ほそかわゆうさい)に治めさせ、関ヶ原(せきがはら)の戦い後は京極氏の領有となった。江戸時代は松平氏の宮津藩、牧野氏の田辺藩、京極氏の峰山(みねやま)藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県で豊岡(とよおか)県となり、1876年(明治9)に京都府に編入された。◇丹波(たんば)国(京都府・兵庫県)と合わせて丹州(たんしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「丹後国」の解説

丹後国
たんごのくに

山陰道の国。現在の京都府北部。713年(和銅6)丹波国から加佐・与謝(よさ)・丹波・竹野(たかの)・熊野の5郡を割き成立。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」に国府所在地は加佐郡と記されるが,旧与謝郡(現,宮津市)に府中の地名や国分寺跡があり,時期による移転説もある。一宮は籠(この)神社(現,宮津市)。「和名抄」所載田数は4756町余。「延喜式」では調は綾・絹・帛,庸は米・韓櫃(からびつ)など,中男作物として椎子(しいのみ)・烏賊(いか)など。明徳の乱後,山名氏にかわり一色氏が守護となる。応仁・文明の乱で一時守護職を奪われるが復帰,分国支配を行った。織田信長による制圧後,細川氏が宮津城へ入る。江戸時代には京極高知(たかとも)が支配し,のち宮津・田辺・峰山の3藩が分立,ほかに但馬出石(いずし)藩領や久美浜(くみはま)代官所領が存在した。1871年(明治4)廃藩置県により宮津県・舞鶴県・峰山県が成立。まもなく豊岡県に統合され,76年京都府に編入された。

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百科事典マイペディア 「丹後国」の意味・わかりやすい解説

丹後国【たんごのくに】

旧国名。丹州とも。山陰道の一国。今の京都府の日本海側。国府は宮津市。付近に古くから浦島太郎伝説がある。《延喜式》に中国,5郡。中世は大江・一色(いっしき)氏らが守護となった後,細川氏らが領有。近世には宮津・田辺・峰山の3藩が置かれた。
→関連項目京都[府]近畿地方

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