久留里藩(読み)くるりはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「久留里藩」の意味・わかりやすい解説

久留里藩
くるりはん

上総(かずさ)国望陀(もうだ)郡久留里千葉県君津(きみつ)市)に置かれた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)、それまで里見氏の属城であった久留里城に大須賀忠政(おおすかただまさ)が3万石で入った。忠政は関ヶ原の戦いの功により6万石となり、遠江(とおとうみ)国横須賀(よこすか)(現、静岡県掛川市)へ移封、その後へ土屋忠直(つちやただなお)が2万石で入封した。土屋家は3代直樹(なおき)のとき1679年(延宝7)に改易となる。2代利直(としなお)の家臣に新井正済(あらいまさなり)とその子白石(はくせき)がいた。正済は利直・直樹2代に仕えたが、御家(おいえ)騒動に関係して改易直前に土屋家を去った。土屋氏改易後しばらくは廃藩となっていたが、1742年(寛保2)に上野(こうずけ)国(群馬県)沼田より黒田直純(なおずみ)が3万石で入封し、1871年(明治4)に廃藩となるまで続いた。久留里県、木更津(きさらづ)県を経て千葉県に編入

[川名 登]

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藩名・旧国名がわかる事典 「久留里藩」の解説

くるりはん【久留里藩】

江戸時代上総(かずさ)国望陀(もうだ)郡久留里(千葉県君津市久留里)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は三近塾。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、徳川四天王の一人榊原康政(さかきばらやすまさ)の嫡男(ちゃくなん)大須賀忠政(おおすがただまさ)(松平忠政)に3万石を与えて当地に入封(にゅうほう)させた。忠政は関ヶ原の戦いの戦功で6万石に加増され、1601年(慶長(けいちょう)6)に遠江(とおとうみ)国横須賀藩へ転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となった。久留里には翌02年に土屋氏が入ったが、79年(延宝(えんぽう)7)に改易(かいえき)となり、久留里藩はしばらく廃藩となった。1742年(寛保(かんぽう)2)、上野(こうずけ)国沼田藩から黒田直純(なおずみ)が3万石で入封、再立藩した。以後明治維新まで黒田氏9代が存続した。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に帰順。1871年(明治4)の廃藩置県で久留里県となり、その後、木更津(きさらづ)県を経て73年千葉県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久留里藩」の意味・わかりやすい解説

久留里藩
くるりはん

江戸時代,上総国 (千葉県) 望陀郡久留里地方を領有した藩。大須賀氏3万石,土屋氏2万石を経て,黒田氏3万石で廃藩置県にいたる。譜代,江戸城雁間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「久留里藩」の解説

久留里藩

上総国、久留里(現:千葉県君津市)を本拠地とした譜代藩。歴代藩主は土屋氏、黒田氏など。

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世界大百科事典(旧版)内の久留里藩の言及

【君津[市]】より

…内陸部の久留里(くるり)には中世に真里谷武田氏,里見氏が拠った久留里城がある。近世に久留里藩が成立して大須賀,土屋,黒田各氏が城主となり,城下町が形成され,月2回の定期市も開かれた。近世末にアサクサノリの養殖が海岸部で成功,その功労者近江屋甚兵衛の墓が人見の青蓮寺にある。…

※「久留里藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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