了庵桂悟(読み)りょうあんけいご

日本大百科全書(ニッポニカ) 「了庵桂悟」の意味・わかりやすい解説

了庵桂悟
りょうあんけいご
(1425―1514)

室町中期の臨済(りんざい)宗聖一(しょういち)派の僧。初めの道号は桃渓(とうけい)といい、後土御門(ごつちみかど)天皇より室号「了庵」の宸翰(しんかん)を受けて道号に転用。別号は鉢袋子(はったいす)。伊勢(いせ)(三重県)の人。8歳で安養(あんよう)寺大疑宝信(だいぎほうしん)に就(つ)いて出家京都東福寺得度(とくど)、雲章一慶(うんしょういっけい)(1386―1463)、惟宗徳輔(いしゅうとくほ)(1370―1466)、惟肖得巌(いしょうとくがん)、洞下(とうか)の竹居正猷(ちくごしょうゆう)(1380―1461)らに歴参、安養寺真如(しんにょ)寺、東福寺、南禅寺などに歴住した。81歳の高齢で遣明使(けんみんし)に任ぜられ、仏日(ぶつにち)禅師勅号を受けて入明、育王山101世の住持にも任ぜられた。帰朝の翌年永正(えいしょう)11年9月15日示寂。語録2巻、『壬申(じんしん)入明記』の著がある。

[石川力山 2017年10月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「了庵桂悟」の意味・わかりやすい解説

了庵桂悟 (りょうあんけいご)
生没年:1425-1514(応永32-永正11)

室町中期の禅僧。伊勢の安養寺の住持から,京都の南禅寺,ついで東福寺に移った。1499年(明応8)遣明使に任ぜられ,1510年(永正7)出帆したが,難風のために帰国し,翌年入明した。ときに87歳。入明後,貿易品の刀剣の価格等について強硬な折衝を重ねて成功した。13年,明の武宗から育王山広利寺の住持を命ぜられ,中国の文人墨客とひろく交際した。帰国後は,南禅寺,東福寺に住した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「了庵桂悟」の解説

了庵桂悟

没年:永正11.9.15(1514.10.3)
生年:応永32(1425)
室町時代の臨済宗の僧。はじめ道号を桃渓といった。「了庵」は,土御門天皇より授かった室号である。諡号は仏日禅師。伊勢(三重県)の人。永享12(1440)年東福寺において出家,『荘子』『大慧書』などを学んだという。文明10(1478)年東福寺の第171世に,長享1(1487)年10月には,京都・鎌倉五山の上である南禅寺の第241世となった。永正2(1505)年遣明使の綱紀の乱れにともない,人格を認められて遣明正使に任ぜられ,その復興に尽力した。明国においては,武宗の招請により,中国五山の阿育王山の第101世となっている。<著作>『了庵和尚語録』<参考文献>『了庵和尚小伝』

(石井清純)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「了庵桂悟」の解説

了庵桂悟 りょうあん-けいご

1425-1514 室町-戦国時代の僧。
応永32年生まれ。臨済(りんざい)宗。大疑宝信の法をつぎ,京都真如寺,東福寺,南禅寺の住持。仏日禅師の号をうけ,永正(えいしょう)8年正使として明(みん)(中国)にわたり,10年帰国した。永正11年9月15日死去。90歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。俗姓は三浦。道号ははじめ桃渓。著作に「壬申(じんしん)入明記」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「了庵桂悟」の解説

了庵桂悟 (りょうあんけいご)

生年月日:1425年2月5日
室町時代;戦国時代の臨済宗の僧
1514年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の了庵桂悟の言及

【岳翁蔵丘】より

…室町後期の画僧。生没,伝歴,法系などは不詳であるが,了庵桂悟(1425‐1514)などの五山禅僧との交友関係から,およそ同時代の画僧と思われる。蔵丘は諱(いみな)。…

※「了庵桂悟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android