于謙(読み)うけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「于謙」の意味・わかりやすい解説

于謙
うけん
(1398―1457)

中国、明(みん)朝の有能かつ剛直な官僚。明朝が15世紀中葉に迎えた全般的な存亡の危機の克服に貢献した。当時、北方からはモンゴルの部族オイラート部が侵攻し、西南の麓川(ろくせん)ではタイ族、湖広(湖南湖北)ではミャオ族、浙江(せっこう)では葉宗留(ようそうりゅう)、福建では鄧茂七(とうもしち)、広東(カントン)では黄蕭養(こうしょうよう)がそれぞれ大規模な反乱を起こした。また宮廷では幼時から正統帝(英宗)を意のままに動かしてきた宦官(かんがん)王振の専横が激しくなり、1449年、正統帝が土木堡(どぼくほ)でオイラート部の首長エセン俘虜(ふりょ)となるという大事件(土木の変)を引き起こし、王振自身も戦死した。河南、山西方面の巡撫(じゅんぶ)として治績をあげたのち、当時兵部侍郎(国防省次官)の職にあった于謙は、宮廷の期待を集めて兵部尚書(長官)となり、終始和議を排して抗戦論を唱え、鉄壁の国都防衛体制を敷いた。このため、エセンは武力攻撃を中止し、正統帝を釈放するのやむなきに至った。于謙は事が思うように運ばないおりには「この身体にたぎる血をどこに注ごうぞ」と嘆くほどの情熱家であったが、その非妥協的で強力な指導性は、しだいに、かつて彼の部下であった石亨(せきこう)ら数名文武官の嫌うところとなり、1457年正月の英宗復位(天順帝)のクーデター直後、彼らの策謀によって処刑された。

[森 正夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「于謙」の意味・わかりやすい解説

于謙
うけん
Yu Qian; Yü Ch`ien

[生]洪武31(1398)
[没]天順1(1457)
中国,明代の政治家。銭塘 (浙江省杭州) の人。字は廷益。諡は粛愍 (しゅくびん) ,のち忠粛。永楽 19 (1421) 年の進士。正統 13 (48) 年兵部左侍郎となり,次いで兵部尚書。同 14年オイラート (瓦剌)部長エセン (也先)が侵入し,土木の変で英宗 (→正統帝 ) が捕えられると,彼は帝の弟景帝を立て,南遷論者を押えて軍備を固め,北京を死守してエセンの大軍を敗退させた。景泰1 (50) 年エセンは明の防衛が固いとみて和議を求め,英宗を帰してきた。天順1 (57) 年英宗が復位すると,彼はその派の讒言にあって獄に下され,棄市の刑に処された。しかし国の危急を救った功は消すことができず,その罪も無実であることが明らかとなり,弘治2 (89) 年官を贈られ,忠臣として遇された。その著に『于忠粛集』 (13巻) がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「于謙」の意味・わかりやすい解説

于謙 (うけん)
Yú Qiān
生没年:1398-1457

中国,明代の政治家。銭塘(浙江省)の人。字は廷益。永楽19年(1421)の進士。宣宗のとき,御史に任官,19年間兵部右侍郎に在任し,1448年(正統13)兵部左侍郎となった。49年に土木の変で英宗がオイラートのエセンの捕虜となると,彼は南遷論など動揺する朝廷内をおさえ,英宗の弟郕王(景帝)を立て北京を死守した。翌年和議がなり,英宗は帰国した。于謙は景帝の絶対的な信任をバックに京営制度の改革を断行し,団営の制度をたてた。57年(天順1)英宗の復辟(ふくへき)が実現すると,于謙は棄市の刑に処せられたが,のち名誉回復し,粛愍(しゆくびん)ついで忠粛と諡(おくりな)された。
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