五日市町(読み)いつかいちまち

日本歴史地名大系 「五日市町」の解説

五日市町
いつかいちまち

[現在地名]三次市三次町

近世三次三ヵ町あるいは三次町と総称された町人街の一つで、西城さいじよう川に平行して南北に延びる。

五日市は元来中世の領主三吉氏の本拠、現畠敷はたじき町の比叡尾山ひえびやま城の麓に成立した市であったが、中世末期城地の移転とともに西へ移動して、上里あがり村の北半分を占める低い河岸段丘上に移り、町人層が定着した。三次町の「国郡志下調書出帳」には五日市の成立について「三吉家拾五代式部少輔広高公畠敷村比叡尾之城ヲ御退居、当時之上里村寺戸ニ御滞留之頃、天正十三年酉歳御町割相調ヒ候由申伝候」「天正十三年五日市町割之儀世直屋三代久亭ト申者ヘ被仰付候」と記す。町名は寛永九年(一六三二)三次藩初代藩主浅野長治が、旧三吉家の家臣で土着してこの地に屋敷を有した近藤円清に与えた赦免状(近藤家文書)に「三吉郡之内 五日市円清屋敷方弐反四畝 右之分米参石六斗者 令赦免候也」とみえる。

五日市町は近世初頭に西城川人工堤防が築造されたこともあって、南の一段低い沖積平地に延び、馬洗ばせん川北岸まで達した。前記書出帳に載る「享保三戌年下調ヘ旧記之事」によれば、享保三年(一七一八)には南長さ八丁・横一丁の町で、竈数七五三(本家一一九・借家六三四)・人数二千四一九人。

五日市町
いつかいちちよう

面積:五九・八六平方キロ

佐伯郡沿岸部の東端に位置する。北から東は広島市、西は廿日市はつかいち町、北西湯来ゆき町に接し、南は瀬戸内海に面する。極楽寺ごくらくじ(六九三メートル)まどヶ山(七一一・四メートル)すずヶ峰(三一二・六メートル)などによって三方を囲まれ、東部の石内いしうち川・八幡やわた(河内川)、西部の三筋みすじ(岡ノ下川)沿いに開けた平地と、臨海埋立地に市街地が展開する。沿岸部を東西に国鉄山陽本線・広島電鉄宮島線が走り、国道二号と西広島バイパスが並走。昭和四〇年(一九六五)頃から急速に都市化が進み、丘陵部に団地が造成された。石内川および八幡川の流域に古代条里制の遺構が確認されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五日市町」の意味・わかりやすい解説

五日市〔町〕
いつかいち

あきる野市」のページをご覧ください。

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