井戸弘道(読み)いど・ひろみち

朝日日本歴史人物事典 「井戸弘道」の解説

井戸弘道

没年:安政2.7.26(1855.9.7)
生年:生年不詳
幕臣通称は鉄太郎。石見守。弘化3年12月(1847)西丸小姓組番士より徒頭に進み,4年8月西丸目付,嘉永1(1848)年目付,海防掛。6年4月浦賀奉行。6月米国ペリー艦隊が浦賀に来航し国書捧呈を迫ったため,応接掛を命ぜられた。同役戸田氏栄と共に久里浜において幕府代表「Prince of Iwami」と称してペリーと会見,フィルモア大統領の将軍宛親書を受領した。同年12月大目付,海防掛,安政1(1854)年軍制改正用掛兼任となる。在職中死去。<参考文献>石井孝『日本開国史』

(酒田正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「井戸弘道」の解説

井戸弘道 いど-ひろみち

?-1855 江戸時代後期の武士
幕臣。目付などをへて,嘉永(かえい)6年浦賀奉行となる。同年来航のペリーからわたされたアメリカ大統領フィルモアの親書を同役の戸田氏栄(うじよし)とともに受理し,江戸へ伝送。同年大目付にすすんだ。安政2年7月26日死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の井戸弘道の言及

【印旛沼】より

…佐藤信淵は,1833年に著した《内洋経緯記》のなかで印旛沼掘割工事に触れ,新田開発と同時に,房総半島,常陸,さらには奥羽の物資を浦賀水道を通ることなく江戸に運ぶことを可能にする点を指摘し,江戸防備の観点からその意義を論じている。外国艦船の江戸湾封鎖による海運の途絶が引き起こす江戸の大混乱についての当時の識者の指摘,海防掛目付井戸弘道が,その対策の観点から印旛沼工事を論じていること,ペリー来航のさいにも掘割工事の再開が論議されていることなどから考えると,外国の対日侵攻,その江戸湾封鎖による物資廻漕の途絶,それによる江戸市中の大混乱と幕府の危機を乗り切るため,常総,奥羽の物資を浦賀水道を利用することなく江戸に供給することを可能にする,銚子→利根川→印旛沼→検見川→江戸の水運ルートの設定を意図した海防政策の一環といえよう。【藤田 覚】。…

※「井戸弘道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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