伊東祐兵(読み)いとうすけたか

改訂新版 世界大百科事典 「伊東祐兵」の意味・わかりやすい解説

伊東祐兵 (いとうすけたか)
生没年:1559-1600(永禄2-慶長5)

豊臣期の日向飫肥(おび)城主伊東義祐の第2子。初名祐隆,六郎五郎,のち民部大輔,従五位下豊後守。1578年(天正6)父義祐が大友軍に従って島津氏と戦って敗れ,伊予に渡る。その後豊臣秀吉に仕え,河内国にて2500石をあてがわれる。87年の秀吉九州征伐に案内役を務め,88年飫肥城に復帰清武,田野地域等1700町をあてがわれる。文禄検地にて3万6000石。関ヶ原の戦で東軍に参加中病死。
伊東氏
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朝日日本歴史人物事典 「伊東祐兵」の解説

伊東祐兵

没年:慶長5.10.11(1600.11.16)
生年永禄2(1559)
安土桃山時代大名。義祐の次男。初名祐隆。六郎五郎。民部大輔,豊後守。父義祐の全盛期であった永禄11(1568)年ごろ日向飫肥城(日南市)城主となったが,島津氏の侵出により圧迫され,天正5(1577)年には父と共に大友氏を頼って豊後に亡命。翌年11月の耳川の敗戦で伊予に流寓した。同10年豊臣秀吉に仕えて河内半田村500石を領し,その九州攻めに際しては黒田孝高に従って案内役を務めた。宮崎,諸県を与えられ,同16年8月には飫肥地方の旧領3万6000石を回復。文禄・慶長の役にも従軍した。関ケ原の戦では東軍(徳川家康方)に属したが,大坂で発病し死去

(今谷明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊東祐兵」の解説

伊東祐兵 いとう-すけたか

1559-1600 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)2年1月15日生まれ。伊東義祐(よしすけ)の次男。日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)城主。島津義久・義弘に追われ,羽柴(豊臣)秀吉につかえる。天正(てんしょう)15年秀吉の九州攻めを先導し,16年飫肥城にもどる。関ケ原の戦いでは徳川方に属した。飫肥藩主伊東家初代とされる。3万6000石。慶長5年10月11日死去。42歳。名は「すけたけ」ともよむ。

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367日誕生日大事典 「伊東祐兵」の解説

伊東祐兵 (いとうすけたか)

生年月日:1559年1月15日
安土桃山時代の大名
1600年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊東祐兵の言及

【飫肥】より

…《和名抄》には飫肥郷の名でみえ,《建久図田帳》には島津荘寄郡として飫肥北郷400町,飫肥南郷110町と出てくる。15世紀来島津・伊東両氏の係争の地となり,1587年(天正15)豊臣秀吉によって伊東祐兵(すけたか)がこの地に封ぜられるにおよんで,同氏によって本格的に城下の整備がなされた。城の大手門から南北にのびる大手門通りに交差してまず東西に横馬場が走り,次に県道をはさんで本町通り,前鶴通りの各通りがある。…

【飫肥藩】より

…日向国那珂郡飫肥に藩庁を置いた外様小藩。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州出兵後,伊東祐兵(すけたか)が那珂・宮崎両郡に高2万8000石を給されたのが藩の興りである。2代祐慶(すけのり)のときに5万7086石の検地高をみたが,その後2度の分知があって総高5万1000石の石高が確定した。…

※「伊東祐兵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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