伊藤律(読み)いとうりつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤律」の意味・わかりやすい解説

伊藤律
いとうりつ
(1913―1989)

政治家。岐阜県土岐(とき)村(現瑞浪(みずなみ)市)に生まれる。1930年(昭和5)第一高等学校入学、1932年共産青年同盟に加盟し、翌年日本共産党入党、同年検挙され1年半で保釈となる。その後1939年満鉄東京支社に入社尾崎秀実(ほつみ)の知遇を得る。同年再検挙され、党再建グループの運動につき供述、またゾルゲ事件発覚の糸口となる情報を特高に漏らした。敗戦直後の1945年8月出獄、まもなく再入党し、1946年(昭和21)には中央委員、政治局員となる。徳田球一に重用されての異例の抜擢(ばってき)であった。1950年、党幹部の公職追放後、地下活動に入り主流派を指導するが、1951年秋、中国へ密出国。その後中国内の「北京(ペキン)機関」で戦前・戦後の行為につき査問され、1953年に、スパイとして党から除名処分を受けた。以後消息不明となり現代史の謎(なぞ)とされたが、1980年8月中国当局に拘禁されていたことが明らかにされ、翌9月、29年ぶりに帰国した。

[荒川章二]

『川口信行・山本博著『伊藤律の証言』(1981・朝日新聞社)』『『戦後史における日本共産党――歴史の真実と伊藤律問題』(1981・日本共産党中央委員会出版局)』『伊藤律著『伊藤律回想録――北京幽閉二七年』(1993・文芸春秋)』『尾崎秀樹著『生きているユダ』(角川文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊藤律」の意味・わかりやすい解説

伊藤律
いとうりつ

[生]1913.6.27. 岐阜
[没]1989.8.7. 東京,八王子
日本共産党指導者。 1930年第一高等学校に入学後,共産青年同盟に加入。 33年日本共産党に入党,治安維持法違反で検挙されたが,転向を表明して釈放される。 39年南満州鉄道株式会社に入社,尾崎秀実交遊,同年共産党再建グループの一員として検挙される。翌年保釈になり満鉄調査部に復職する。 41年三たび検挙されるが,このとき,ゾルゲ事件摘発のための有力な情報を漏したとされる。第2次世界大戦後復党し,政治局員としてはなばなしく活躍したが,公職追放で地下活動に入り,51年中国に密航した。中国滞在中の 53年,スパイとして日本共産党から除名され,中国共産党身柄を拘束された。 28年間の獄中生活間に,聴力・視力をほぼ失い,80年車椅子で帰国。現代史の生き証人といわれたが,何も語らずに逝った。

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百科事典マイペディア 「伊藤律」の意味・わかりやすい解説

伊藤律【いとうりつ】

日本共産党指導者。岐阜県出身。1930年第一高等学校に入学するが,1932年日本共産党青年同盟に加入して放校。翌年同党に入党,警察の弾圧や内部分裂などで壊滅状態にあった党の再建活動に参加した。1939年南満州鉄道調査部嘱託となり,尾崎秀実(ほつみ)と交遊,同年党再建活動で検挙され,この時の取調べ供述が後のゾルゲ事件検挙の端緒となったといわれる。1946年中央委員・政治局員となり,1950年マッカーサーによる公職追放で地下に潜伏,翌年中国に密出国した。1953年スパイ容疑で党から除名,1980年中国での生存が確認され同年帰国。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤律」の解説

伊藤律 いとう-りつ

1913-1989 昭和時代の社会運動家。
大正2年6月27日生まれ。昭和7年一高在学中に共産青年同盟にはいり放校処分となる。8年共産党に入党,検挙。14年満鉄東京支社にはいり尾崎秀実(ほつみ)と交遊,再検挙されゾルゲ事件発覚にかかわる。20年出獄後,徳田球一のもとで同党政治局員となる。26年中国にわたる。28年党から除名処分,55年帰国。平成元年8月7日死去。76歳。岐阜県出身。
【格言など】いま生きて再び故国の土を踏むことができました。この喜びは,まことに無量なものがあります(29年ぶりに帰国して記者会見での挨拶)

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