改訂新版 世界大百科事典 「伴淳三郎」の意味・わかりやすい解説
伴淳三郎 (ばんじゅんざぶろう)
生没年:1908-81(明治41-昭和56)
〈バンジュン〉の愛称と,1950年代の流行語となった〈アジャパー〉なる受けことばで親しまれたコメディアン。本名鈴木寛定(ひろさだ)。山形県米沢市に生まれ,貧しい南画家を父にもち,幼いころから各地を転々とした。剣戟(けんげき)が看板の大衆演劇に加わったりしたが,1927年,日活時代劇部の大部屋に入り,伴淳三郎を芸名とする。やがて珍優として売り出すが,いまひとつ〈看板〉になれないまま,映画界と演芸界をまたにかけてがんばる。太平洋戦争中から,浅草を本拠に〈伴淳軽喜座〉を主宰し,戦後は〈伴淳ショウ〉の旗上げなどもするが,全盛のストリップショーに押されて,いずれも長続きはしなかった。
本格的な映画カムバックは51年で,同年の斎藤寅次(二)郎監督の《吃七捕物帖・一番手柄》で贋金(にせがね)作りの用心棒を演じ,首領の金語楼に〈一瞬にしてパーでございます〉と報告,〈敵か味方か?〉〈味方がパー〉と,手先を上に向けて,オフビートなタイミングで指をパッと開いたのが受けた。それを,びっくりしたときの〈アリャー〉が山形弁で〈アジャー〉となまるおかしみにつなげ,ショックを受けたとき〈アジャー〉〈パー〉と叫ぶのが,一世をふうびした。かくてバンジュンは,40代で一躍人気コメディアンとなったが,1本の映画を背負って立つスターではなく,あくの強い怪演で,共演者を食うときに生彩を放つタイプは一貫して変わらなかった。共演に花菱アチャコを配し,荒っぽいペーソスをきかせた《二等兵物語》シリーズ(1956-61)や,森繁久弥,フランキー堺を向こうに回し,ねちっこい助平おやじタイプで場面をさらった《駅前》シリーズ(《駅前旅館》,1958-69)などがその好例である。みずからの芸風を〈泥くさい異常男〉と称していたというが,《歌くらべ荒神山》(1952,斎藤寅次郎)の,なぜか語尾だけ尾張弁になる怪浪人も,本格的な立回りができる特技を生かした,不気味なこっけいさという持味の代表作といえる。後年は(日本のコメディアンの通例にもれず)シリアスな〈個性的な脇役〉へと方向を転じ,内田吐夢の《飢餓海峡》(1964)の老刑事で,毎日映画コンクール男優助演賞を受けた。
執筆者:森 卓也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報