但馬国(読み)タジマノクニ

デジタル大辞泉 「但馬国」の意味・読み・例文・類語

たじま‐の‐くに〔たぢま‐〕【但馬国】

但馬

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日本歴史地名大系 「但馬国」の解説

但馬国
たじまのくに

現兵庫県の北部を占め、東は丹後国・丹波国、南は播磨国、西は因幡国と境し、北は海(日本海)に臨む。古代は山陰道の一国で、「和名抄」東急本国郡部に「太知万」の訓がある。

古代

〔国の成立と表記〕

国名の初見は「日本書紀」垂仁天皇三年三月条と「古事記」垂仁天皇段(ただし多遅麻国)であるが、令制国としては「日本書紀」天武天皇四年(六七五)二月条の畿内その他の諸国に勅して能く歌う男女や侏儒・伎人を貢上させた記事にみえるのが最初である。国名の表記は上記の但馬・多遅麻のほかに、「古事記」に多遅摩、「先代旧事本紀」に但遅間・田道間とある。地形は中国山脈に続く山地・高原が多く、これら山地から北流する円山まるやま川・矢田やだ川・岸田きしだ川などの流域の平地以外には平野は少ない。海岸は屈曲に富むが断崖が海に迫るところが多く、良港に乏しい。文化の発達は瀬戸内海に面する摂津・播磨より遅れた。

〔律令制以前の形勢〕

但馬の地方でまず文化の開けたのは、東部の朝来あさご養父やぶ出石いずし気多けた城崎きのさきの五郡を流域とする円山川の開いた平野部である。古墳時代以降では森尾もりお古墳(豊岡市)茶臼山ちやうすやま古墳(出石町)のある現豊岡市から出石町へかけての地域と、但馬最大の前方後円墳である池田いけだ古墳(和田山町)や、これに次いで大きい船宮ふなのみや古墳(朝来町)のある現和田山わだやま町を中心に朝来町・山東さんとう町などを含む地域の二地方で文化が栄えたと考えられる。前者の地には記紀に多くの伝承のある出石神社(「延喜式」神名帳では伊豆志坐神社)、後者の地には延喜式内の大社として著名な粟鹿あわが神社(山東町)がある。

出石神社は新羅の王子天日槍(「日本書紀」。「古事記」は天日矛)を祀る神社として名高い。「日本書紀」によれば、日槍は垂仁天皇三年に七種の神宝をもって、はじめ播磨に来着、近江・若狭をめぐって但馬国に来住したといい、「古事記」では、日槍の妻が夫と不和になり家を出て船に乗り、日本にきて難波なにわ(現大阪市)にとどまったので、日槍は後を追って難波に行こうとしたが、渡りの神にさえぎられたため、多遅摩(但馬)国にとどまったと伝える。問題の多い伝説であるが、日槍を祖先とする朝鮮系渡来者の一族に祀られた神で、その一族はこの地域の有力豪族であろう。仲哀天皇の皇后で応神天皇を産んだという神功皇后が日槍の子孫と伝えられることも、この氏族の勢力が大きいことを思わせる。日槍を祖とする氏族のウジの名は明らかでないが、日槍の子孫の一人と伝えられる田道間守たじまもりが三宅連の祖であることが、記紀の垂仁天皇条にみえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「但馬国」の意味・わかりやすい解説

但馬国 (たじまのくに)

旧国名。但州。現在の兵庫県北部にあたり,北は日本海,東は丹波国・丹後国,南は播磨国,西は因幡国にそれぞれ隣接する。

山陰道に属する上国(《延喜式》)。国名は,《古事記》には〈多遅麻〉〈多遅摩〉と表記される。《日本書紀》ではすべて但馬とするが,名称の由来は不明。伝承的記事を除けば,国名の初出は675年(天武4)の侏儒・伎人を貢上せしめたという記録である。ただし,但馬国の古代を語るとき,史実かどうかは別として,天日槍(矛)(あめのひぼこ)の説話を忘れることができない。すなわち,新羅の王子である天日槍が妻を追って日本に渡り,九州から瀬戸内海を経て播磨・淡路・難波・近江・若狭などを遍歴して,但馬にいたってついに安住し,出石(いずし)神社の祭神としてまつられたという。この伝承の背後には秦(はた)氏を中心とした新羅系渡来氏族の日本流入という歴史があったと考えられているが,日本海を経て朝鮮半島と近いという地理的条件に注目する必要があろう。その天日槍の子孫と伝え,また但馬国の国名とも関係する田道間守(たじまもり)が非時香菓(ときじくのかくのみ)を求めて常世国(とこよのくに)に渡るという説話も,同じ条件を背景とするものである。

 律令制下では,朝来(あさこ),養父(やふ),出石(いつし),気多(けた),城崎(きのさき),美含(みくみ),二方(ふたかた),七美(しつみ)の8郡を管した。国府・国分寺・国分尼寺は,もっとも平地の多い気多郡(現豊岡市,旧日高町)に置かれている。近国であったから文献のうえにもしばしば登場するが,713年(和銅6)に白雉を献上したこと,716年(霊亀2)に大嘗会(だいじようえ)の須伎(主基)(すき)国となったことなどが注目される。平安時代になって,828年(天長5)に渤海人が漂着し,また930年(延長8)には丹後に漂着した渤海人の接待費が進上されるなど,大陸との関係も依然として続いていた。平安時代の末期には平正盛が国司になっており,平氏との関係が深かった。
執筆者:

源平の戦いで源頼朝が勝利を得たため,平家の知行国(知行国主平経盛,国守平経正)となっていた但馬国は,頼朝の支配下におかれた。しかしのち,別系の平氏に返したらしく,《吾妻鏡》建久1年(1190)の記事によれば,但馬に下知しているのは平信国である。あるいは頼朝が皇室に返還してのち,平信国が国守となったのかもしれない。いずれにしても但馬は皇室の支配下に復した。当時但馬には広大な皇室領が設定されていた。すなわち,後白河院領の城崎郡木前(きのさき)荘,同新田荘,朝来郡朝来荘,七美郡小代(おしろ)荘,同菟束(とつか)荘,二方郡久斗(くと)荘,同大庭(おおにわ)荘などがその代表である。これらはいずれも後白河の持仏堂長講堂領として伝領される。つぎに大きいのは美福門院の御願寺歓喜光院領で,朝来郡賀都(かつ)荘,気多郡八代(やしろ)荘,出石郡大垣御厨(みくりや)などが含まれる。このほか白河天皇の御願寺法勝寺領として養父郡糸井荘,出石郡雀岐(ささき)荘,城崎郡下鶴井荘がある。社寺領で比較的大きいのは伊勢皇太神宮領で,朝来郡磯部(いそべ)荘,気多郡太多荘,二方郡田公(たぎみ)御厨よりなる。

 さて1185年(文治1)ころ,武蔵七党の横山時広が但馬国惣追捕使であった。これが初代の但馬守護である。平家没官領(もつかんりよう)の荘園や国領の郷に地頭が配置されたが,地頭はもちろん関東御家人である。例外的に女性の地頭もあり,94年朝来郡多々良岐(たたらき)荘の地頭に任命されたのは頼朝の伯母熊野鳥居禅尼で,彼女の希望によったという。これよりさきの86年源平合戦に功のあった法橋昌明は,出石郡太田荘を恩給され太田を名のるようになった。

 1221年(承久3)後鳥羽上皇の討幕の召集に応じなかった太田昌明は,承久の乱後但馬守護になり,京方についた前守護安達親長(あだちちかなが)にとってかわった。以後の但馬守護は太田氏一族の就任するところとなる。なお後鳥羽院の子雅成(まさなり)親王は但馬に配流され,同院寵臣の藤原光親の知行国但馬は幕府に没収された。承久の乱で京方についた但馬の豪族たちは没落したが,《承久記》は但馬朝倉八郎や二方二郎三郎行秋らの名を伝える。但馬夜久氏は高綱・維綱らが京方に応じたが,兄真綱は関東に味方して生き残った。乱後,京方の郷・荘に関東御家人が地頭として配置された。源平の乱いらいの2度にわたる東国武士の移植が大規模に行われたことになる。たとえば朝来郡磯部荘の地頭には木内胤朝を命じている。22年延暦寺の諸堂修理のため但馬の国務が同寺に与えられた。しかし国の目代に寺関係者が就任しても,郷々の地頭の協力は期待しがたいから,実際には関東と関係をもつ新守護昌明の援助を必要としたことであろう。25年(嘉禄1)気多郡三方郷が比叡山に寄進され,横川首楞厳院(よかわしゆりようごんいん)領三方荘となる。

1285年(弘安8)守護太田政頼は《但馬国大田文(おおたぶみ)》を作成した。蒙古襲来直後の軍事的目的で幕府に報告させたものである。この大田文によると但馬国衙は気多郡高生(たこう)郷にあり,郷内に〈一庁官分〉〈留守所用作〉など国衙関係の田がある。一庁官分とは国司の目代の所管らしく,高生郷107町余のうち22町を占める。この郷には地頭が配置されず,そのかわり公文(くもん)に〈矢部尼〉(北条泰時夫人)とあるので,高生郷は幕府の支配があきらかなうえ,国衙留守所にもその支配が及び,目代も幕府関係者と推測される。一庁官分の収入は六波羅府の費用にあてられたのであろう。なお但馬の幕府領は南の生野銀山付近から北流する円山(まるやま)川沿いの軍事交通の要所に点々とあり,朝来郡広谷(ひろたに)荘,同多々良岐荘,同伊由位田(竹田荘),同磯部荘,養父郡水谷大社,同浅間寺,気多郡高生郷,城崎郡新田荘と続く。ほかに幕府貴人の所領もあり,気多郡大将野(たいしようの)荘の地頭が源実朝未亡人,出石郡太田荘の地頭が北条時広夫人の知行などであり,六波羅評定衆の所領では水谷大社69町余の預所・地頭・神主の水谷清有,二方郡田公御厨48町余の地頭長井頼茂,養父郡朝倉荘36町の地頭長井頼重の知行などがある。

 大田文でわかる守護太田政頼の所領は出石郡弘原荘50町など138町余の地頭職であるが,守護一族合計では500町をこえる地頭職となり,比較的出石郡に集中しているので但馬の守護所が出石付近にあったと推定される。また一時的に守護の指揮下に入って京都大番役などを務める御家人として,養父郡糸井荘公文の小谷家茂や城崎郡樋爪(ひづめ)国領下司の奈佐高春,七美郡菟束荘下司菟束道恵などの在地武士が大田文に書き上げてある。なお大田文によれば但馬国田数5480町余のうち,国領1547町余,荘園3933町となっている。

 城崎温泉は貴族の湯治に利用され,1269年(文永6)安嘉門院が天の橋立から立ち寄っており,吉田兼好も1337年(延元2・建武4)ころここに遊んでいる。

元弘の乱がおこるや隠岐から京都にもどる後醍醐にまっさきに応じたのは小佐郷地頭伊達貞綱らである。但馬守護太田守延も成良(しげよし)親王に従い後醍醐天皇の側についた。南北朝の内乱期には但馬の武士たちも二分し,1336年朝倉重方は足利尊氏に味方している。53年(正平8・文和2)には但馬の南朝軍は播磨に出陣して,赤松則祐(そくゆう)らと戦っている。但馬は足利直義の知行国となったが,但馬が北朝に従うようになるのは74年(文中3・応安7)ころからで,すでに山名時義が但馬守護を務めていた。但馬守護の山名氏はしばしば室町幕府と対立し,90年(元中7・明徳1),足利義満は但馬の山名時煕・氏之らを討っている。但馬の政情の不安定を物語るものであろう。

 応仁の乱がおこると,但馬の在地武士らは二分して東西両軍に属して戦った。たとえば1468年(応仁2),朝来郡に侵入した東軍の内藤,長両氏は西軍の竹田城主大田垣氏に討たれて敗死している。文明年間(1469-87)には守護山名政豊が但馬に入り,播磨の赤松政則との戦いがはげしくなった。明応年間(1492-1501)になると山名政豊・俊豊父子の間で戦いがおこっている。山名氏とその重臣との争いも発生し,1505年(永正2)将軍足利義澄が但馬守護山名致豊と重臣垣屋続成との和解をとりもっているほどである。また守護の他国侵略もさかんで,山名誠豊などは播磨や丹波に侵入している。但馬の武士たちの動きが活発であったためであろう。

 こうした但馬武士の動きの背後には但馬の民衆の動きが考えられ,その動きのもとは但馬の諸産業と市場の発達であろう。とくに但馬九日市庭(豊岡市)や但馬牛の評判は中央で高い。また文明年間以後の日記《実隆公記》や《御湯殿上日記》には但馬の紙がしばしば見え,《諸芸方代物附(しよげいかただいもつづけ)》には但馬の真綿があげられている。さらに戦国時代になると鉱山業の発達が著しい。すでに1434年(永享6)備前尾道で遣明船に積み込んだ赤銅には但馬のものが含まれていた。おそらく但馬明延(あけのべ)の産銅であろう。また生野銀山は,1542年(天文11)の発見からともいわれている。

 69年(永禄12),織田信長は木下(豊臣)秀吉に但馬の山名祐豊を討たせ,生野銀山を支配したと伝える。77年(天正5)羽柴秀吉は但馬に出兵し,また弟秀長に但馬を平定させ,80年但馬守護の山名氏は滅びた。
執筆者:

豊臣時代になって出石には前野長康,ついで95年(文禄4)小出吉政が入った。豊岡には,初代の城主宮部継潤(けいじゆん)が因幡攻めの功によって82年鳥取に移ったあと,木下重堅-尾藤知定-明石則実-福原直高と続き,98年(慶長3)に杉原長房が入った。竹田には斎村広通(赤松広英),八木に別所重棟が入り,二方郡には鳥取藩宮部領が生まれた。

 関ヶ原の戦で斎村・別所は除封,宮部も除封されて二方郡の所領は因幡若桜(わかさ)藩山崎家盛領となった。出石の小出氏6万石,豊岡の杉原氏2万1000石は旧領を安堵された。翌1601年山名豊国に七美郡6700石が与えられ,04年に小出吉政が弟三尹(みつまさ)に分知した所領1万石のうち但馬5000石は和泉陶器藩の飛地となった。05年には山崎家盛の二方郡の所領は大部分弟宮城頼久に分知されている。下って66年(寛文6)小出氏がさらに分知して倉見・大藪・山本に陣屋をおく3旗本小出の知行地が生まれ,73年(延宝1)にも分知して土田(はんた)の小出が生まれている。こうして所領配置は定着期に入り,豊岡藩は杉原氏が絶家したため68年入封した京極氏で定着した。また96年(元禄9)にいたって出石藩小出が断絶したため,97年松平忠周が出石に入封している。1706年(宝永3)松平は信州上田の仙石政明と交代し,ここに出石藩は仙石氏が入封して定着した。

 このような変遷をみたが,但馬の諸藩と旗本はすべて徳川氏にとっては外様であった。すなわち但馬は丹波とともに,大坂を中心に播磨や丹波の半ばまで広がった譜代大名領地域に最も近接する外様勢力の地域であった。だが但馬では幕府直領の存在も逸しえない。生野銀山のある地域は豊臣・徳川時代を通じて直領となった。そして隣国播磨の6000石を合わせておよそ3万7000石の直領が銀山付村として生野奉行(1716年以後生野代官)の支配下に属した。

代官所のある鉱山町生野は最盛期の1622年(元和8)ころ人口2万を数えたとみられる。悪代官として朝来郡百姓一揆(1620)の対象となり,不正が発覚して斬罪となった山川庄兵衛はこのころの奉行である。58年(万治1)に矢根銀山が発見され,生野の外財(げざい)が大挙してそこへ移動する有様となったが,ここの盛期も長くは続かず,生野,矢根,中瀬金山,阿瀬金銀山等の盛期は総じて17世紀の間にとどまった。但馬で早く名産となった柳行李(やなぎごうり)は,円山川の氾濫原荒原(あわら)地帯に自生するコリヤナギを材料として展開した。1645年(正保2)刊の《毛吹草》にすでに但馬の名産として〈柳籠履(ごり)〉がみえる。また早く養父市場を中心に耕耘牛として評価の高い但馬牛の生産がみられた。18世紀後期,養父・気多郡を中心に養蚕業が急速に興り,養蚕技術の改良普及につとめた上垣守国の《養蚕秘録》なる著述も現れた。初めは養蚕農家がみずから繭を糸にして出していたが,幕末期には養蚕と製糸工程の分化が進み,養蚕農家・製糸農家への糸問屋の前貸支配も進んだ。19世紀初頭には浜坂で中国山地の砂鉄をつかった縫針の製造が始められ,京・大坂に売り出す針問屋が生まれている。

 西廻海運は古く寛永期(1624-44)から盛んとなり,幕府も72年(寛文12)河村瑞軒を起用して東北の直領米を大坂回りで江戸へ回漕する西廻航路を開いた。東北・北陸諸藩の蔵米などが竹野・柴山・諸寄(もろよせ)等を但馬の寄港地として,西回りで大坂・江戸へと回漕された。但馬では農業を通じての経済成長は望めなかったので,上に述べた蚕糸取引等の商品流通や海運業を通じて蓄積した資本を,農民に利貸して土地を集積していくという利貸資本=在郷問屋商人型の地主が成長した。

19世紀に財政窮乏の進んだ藩は,これらの商品生産・商品流通への規制を加えるようになる。豊岡藩は1823年(文政6)柳行李を対象に藩専売制を強化し,出石藩も22年生糸を対象に専売制に踏み切っている。出石藩ではこの専売政策をはじめとする財政立直し策をめぐって,24年重臣間の対立が表面化した。藩主の継嗣問題を契機として守旧派・改革派の対立が仙石騒動と呼ばれる御家騒動に発展したのである。これは,幕府の知るところとなって裁かれ,筆頭家老改革派の仙石左京の獄門,即日処刑をもって決着した。この事件で藩も家政向き不取締りとして35年(天保6)領知を半減された。

 幕末期公武合体派に敗れた尊攘派平野国臣,美玉三平らが京をのがれて但馬に潜伏したが,折から地主豪農商層,村落支配者層のもとで組立てが進められていた農兵が,平野らの討幕運動に組み込まれていく。63年(文久3)天誅組の挙兵に呼応して,北垣晋太郎,西村庄兵衛ら多数の村落支配者層に動員された農兵が生野代官所を占拠した。その鎮圧のために豊岡,出石,姫路各藩が出動し,占拠は2日にして解かれたが,生野の変は維新への緒戦となった。その後変遷を経て71年11月には出石県,豊岡県,村岡県,生野県が豊岡県に統合,さらに76年豊岡県は兵庫県に統合された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「但馬国」の意味・わかりやすい解説

但馬国
たじまのくに

山陰道の一国。但州(たんしゅう)。現在の兵庫県の北部、東は丹波(たんば)・丹後(たんご)、南は播磨(はりま)、西は因幡(いなば)に接し、北は日本海に臨む。中国山地の東部に位し、山岳重畳、日本海岸に迫り、断崖(だんがい)奇勝をなすが、良港に乏しく、風待ち港がわずかにある。播磨境から円山(まるやま)川、竹野川、佐津川、油良(ゆら)川、久斗(くと)川、岸田川、大栃川などが北流し、その河口に津居山(ついやま)、竹野、佐津、香住(かすみ)、浜坂などの漁港がある。降水量多く、ことに冬季は寒気厳しく、人口も過疎となっている。『古事記』には多遅麻(たじま)、『旧事本紀(くじほんぎ)』には但遅麻(たじま)または田道間(たじま)、『日本書紀』には但馬とある。『播磨国風土記(ふどき)』にみえる天日槍(あめのひぼこ)が新羅(しらぎ)から当地に来住した説話は、一面この地方の文化の先進性を示している。『延喜式(えんぎしき)』によると、朝来(あさこ)、出石(いずし)、城崎(きのさき)、気多(けた)、美含(みくみ)、二方(ふたかた)、七美(しつみ)、養父(やぶ)の8郡が存在していたが、これは明治中期まで続いた。1896年(明治29)の新郡区編成では城崎、気多、美含の3郡を城崎郡に、二方、七味の両郡を美方(みかた)郡に合併して5郡にした。なお現在、城崎郡のうちの一部が豊岡(とよおか)市になり、養父郡が養父市となり、4郡、2市となっている。豊岡市には国府の地名、国分寺塔心礎が残る。

 鎌倉時代初め、常陸房昌明(ひたちぼうしょうみょう)が出石郡太田荘(しょう)に来住して太田姓を名のり、1221年(承久3)の乱後、但馬守護職につき、以後世襲した。1333年(元弘3)千種忠顕(ちぐさただあき)の決起に加わったが、その後は国中争乱が続いた。1353年(正平8・文和2)山名時氏(やまなときうじ)が南朝に帰順してこの国を攻め、のち室町幕府につき、5子の時義がこの国を領し、出石に築城、以後山名氏の世襲となった。1580年(天正8)豊臣(とよとみ)秀吉の再征で山名祐豊(すけとよ)は降り、その支配は終わった。秀吉は弟羽柴秀長(はしばひでなが)を出石城に、宮部継潤(みやべけいじゅん)を豊岡城に置いた。その後、出石、豊岡はそれぞれ大名領となり、出石は小出(こいで)、松平(まつだいら)(藤井)、仙石(せんごく)の諸氏、豊岡は木下(きのした)、尾藤(びとう)、明石(あかし)、福原(ふくはら)、杉原(すぎはら)、京極(きょうごく)の諸氏が続いた。ほかに、村岡は山名氏の後裔(こうえい)が交替寄合(こうたいよりあい)として知行(ちぎょう)していたが、1868年(明治1)1万1000石に高直しされて大名に列した。産業面では、生野(いくの)に銀山が開発され、幕府直轄領として重要な役割を果たした。廃藩置県で、出石、豊岡、村岡の3藩は71年それぞれ3県となり、まもなく豊岡県に統合、76年兵庫県に編入。天領の生野も1869年生野県となり豊岡県を経て兵庫県に入った。

[小林 茂]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「但馬国」の意味・わかりやすい解説

但馬国
たじまのくに

現在の兵庫県北部の地方。山陰道の一国。上国。『旧事本紀』には但遅麻国造と二方国造が記されている。前者は但馬国の東部,後者は但馬国の西部にあったとみられる。『古事記』応神天皇の段には「多遅摩国」とみえ,新羅王のアメノヒボコの説話が記されている。国府は,国分寺とともに豊岡市に置かれた。『延喜式』には朝来 (あさご) ,養父 (やぶ) ,出石 (いずし) ,気多 (けた) ,城崎 (きのさき) ,美含 (みくみ) ,二方 (ふたかた) ,七美 (しつみ) の8郡があり,『和名抄』には 63郷,田 7555町が記されている。鎌倉時代には常陸房昌明が太田荘にいたが,承久の乱 (1221) 以後守護となり,その子孫といわれる太田氏が守護職を世襲した。室町時代には山名氏が守護として支配した。天正8 (1580) 年豊臣秀吉によって山名氏が滅び,宮部継潤が支配した。江戸時代には豊岡に初め杉原氏,のち京極氏が封じられ,出石には初め小出氏,のち仙石氏が封じられ幕末にいたった。また明治1 (1867) 年村岡藩 (山名氏) が置かれた。明治維新を経て明治4 (1871) 年7月藩はそれぞれ県となり,11月には合併して豊岡県となったが,1876年兵庫県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「但馬国」の解説

たじまのくに【但馬国】

現在の兵庫県北部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陰道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の豊岡(とよおか)市日高町におかれていた。鎌倉時代は太田氏、南北朝時代以降は山名氏が支配。1569年(永禄(えいろく)12)には織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に命じて同国内の生野(いくの)銀山を支配させた。江戸時代、銀山は幕府直轄領、ほかに京極氏豊岡藩、仙石氏の出石(いずし)藩がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県で豊岡県となり、1876年(明治9)に兵庫県に編入された。◇但州(たんしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「但馬国」の解説

但馬国
たじまのくに

山陰道の国。現在の兵庫県北部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では朝来(あさこ)・養父(やぶ)・出石(いずし)・気多(けた)・城崎(きのさき)・美含(みくみ)・二方(ふたかた)・七美(しつみ)の8郡からなる。日本海に面することから,渡来伝説や異国船漂着の例が多い。国府は804年(延暦23)気多郡高田郷(現,豊岡市日高町)へ移された記事がある。それ以前も気多郡と推定されるが,一宮の出石神社(現,豊岡市出石町)がある出石郡との説もある。国分寺・国分尼寺は気多郡(現,豊岡市日高町)。「和名抄」所載田数は7555町余。「延喜式」では調は羅・綾・絹,庸は韓櫃(からびつ)・絹で,中男作物は黄蘗(きはだ)・搗栗子(かちくりのみ)・煮塩年魚(にしおのあゆ)・鮐皮(つさきはち)など。承久の乱以後は常陸房昌明(しょうめい)が守護になり,子孫の太田氏が継承。守護所は本拠の出石郡におかれたとされる。南北朝期以降は山名氏の領国。江戸時代は出石藩と豊岡藩,生野銀山を中心とする幕領,旗本領がおかれた。1871年(明治4)豊岡県となり,76年兵庫県に編入された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「但馬国」の意味・わかりやすい解説

但馬国【たじまのくに】

旧国名。但州,田道間とも。山陰道の一国。現在の兵庫県の日本海側。《延喜式》に上国,8郡。中世は安達・太田氏ら守護の後,山名氏の所領。近世は豊岡・出石(いずし)の2藩に京極・仙石氏らが入封。
→関連項目出石藩近畿地方雀岐荘兵庫[県]

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