佐藤一斎(読み)サトウイッサイ

デジタル大辞泉 「佐藤一斎」の意味・読み・例文・類語

さとう‐いっさい【佐藤一斎】

[1772~1859]江戸後期の儒学者。江戸の人。名は坦。中井竹山林述斎に学び、林家の塾長、昌平坂学問所教授を歴任。門人から渡辺崋山佐久間象山中村正直らを出した。著「言志録」など。

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精選版 日本国語大辞典 「佐藤一斎」の意味・読み・例文・類語

さとう‐いっさい【佐藤一斎】

江戸後期の儒者。江戸の人。名は坦(たいら)、字(あざな)は大道、通称捨蔵。美濃岩村藩の家老の家に生まれ、中井竹山らに学び、陽明学に目を開かれる。後、林述斎に師事、林家の塾長に抜擢され、また、幕府儒官として昌平黌の教授となる。佐久間象山、大橋訥庵安積艮斎らの俊秀輩出厳格端正な文章をよくし、朱子学と陽明学を併せ奉じた。著「愛日楼全集」「言志四録」「近思録」「周易欄外書」など。安永元~安政六年(一七七二‐一八五九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐藤一斎」の意味・わかりやすい解説

佐藤一斎
さとういっさい
(1772―1859)

幕末期儒学思想界の大御所。名は信行、のちに坦。通称は幾久蔵(きくぞう)、のちに捨蔵。字(あざな)は大道。号は一斎、愛日楼(あいじつろう)、老吾軒、百之寮、風自寮。美濃(みの)国(岐阜県)岩村藩家老の二男に生まれ、藩主松平乗蘊(まつだいらのりもり)(1716―1783)の三男、後の林述斎(じゅつさい)と兄弟のごとくして育った。34歳で林家の塾頭となり、70歳で昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。一斎は若いときから陽明学の信奉者であったが、寛政(かんせい)異学の禁の波及効果の一つとして、藩籍を離脱して大坂に出て、中井竹山(なかいちくざん)に朱子学を学んだ。しかし、のちに林家の塾頭になったときでさえも、公人としては朱子学を講じはしたものの、個人的信念としてはあくまでも陽明学の信奉者であった。「陽朱陰王」などと陰口をたたかれもしたが、「公朱私王」とでもいいうべきものである。朱子学・陽明学を兼採した一斎の宋明(そうみん)性理学に関する学殖は当代随一であった。一斎門では天下の俊秀と講学できることも大きな魅力であった。幕末期の文教政策・人材養成の点で果たした一斎の功績はきわめて大きいものがあった。主著に『言志(げんし)四録』『愛日楼文詩』(1829)などがある。

田公平 2016年5月19日]

『相良亨・溝口雄三他校注『日本思想大系46 佐藤一斎・大塩中斎』(1980・岩波書店)』『宮城公子編・訳『日本の名著27 大塩中斎・佐藤一斎』(1984・中央公論社)』

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百科事典マイペディア 「佐藤一斎」の意味・わかりやすい解説

佐藤一斎【さとういっさい】

江戸後期の朱子学者,陽明学者。美濃(みの)国岩村藩の家老の家に生まれ,1790年藩主の第3子松平衡(たいら)(後の林述斎)の近侍となる。井上四明に学び,のち大坂で中井竹山につき陽明学に傾く。1793年林家の門に入る。述斎の後をうけて昌平黌の儒官となり,幕府文教政策の首班として活躍した。門人は佐久間象山安積艮斎(あさかごんさい),大橋訥庵(とつあん),横井小楠ら多彩。著書言志録》《初学課業次第》《愛日楼(あいじつろう)文詩》など。
→関連項目中村正直松崎慊堂山田方谷渡辺崋山

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朝日日本歴史人物事典 「佐藤一斎」の解説

佐藤一斎

没年:安政6.9.24(1859.10.19)
生年:安永1.10.20(1772.11.14)
江戸中・後期の儒学者。林家塾塾頭。のち昌平坂学問所教官。名は坦,字大道,通称捨蔵,号(惟)一斎,愛日楼。岩村藩(岐阜県)藩士佐藤信由と留の子として江戸の藩邸内で生まれた。早くから読書を好み,書をよくした。藩主松平乗薀の3男乗衡(のちに林家を継いで大学頭述斎となる)とは,共に勉学に励んだ。寛政3(1791)年20歳のときに致仕を願い出て許され,翌年大坂で中井竹山に学び,5年には江戸に出て林錦峯(信敬)に入門したが,間もなく錦峯が死去し松平乗衡(名を衡に改む)が幕命により林家に養子に入って,今度は師弟の関係になった。文化2(1805)年林家塾の塾頭となり,全国の学界の頂点に位置して名声は高まり,多数の門弟を抱えるようになった。文政9(1826)年岩村藩から老臣の列に加えられ,政治に参与し,15人扶持(のちに20人扶持)を給せられた。天保12(1841)年一旦隠居したが,幕府から学問所教授(御儒者)に抜擢され(切米200俵と15人扶持),所内の官舎に移り,没するまで在職した。 一斎の学問は異学の禁後の林家塾頭,昌平黌教授の立場から表向きは朱子学を標榜したが,実際には王陽明らの影響を深く受けており,「陽朱陰王」などといわれた。一斎の思想は「言志四録」(『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』)に最もよく表れている。易に詳しく『周易欄外書』『易学啓蒙欄外書』などの著があり,その独自の宇宙観,人生観の基底をなしている。経学ではこのほか,大学・中庸・論語・孟子・小学・近思録・伝習録の各『欄外書』など多数の著書がある。文章は韓愈,欧陽修のほか,王陽明を範としていた。その詩文は『愛日楼文詩』(1829)のほか,『愛日楼稿本』(大日本思想全書16巻)などに収められている。厳粛勤勉な性格で,常に時計を座右に置いていたという。<参考文献>高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』,五弓久文編『事実文編』58巻

(梅澤秀夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「佐藤一斎」の意味・わかりやすい解説

佐藤一斎 (さとういっさい)
生没年:1772-1859(安永1-安政6)

江戸後期の儒者。名は坦,字は大道,通称は捨蔵。号は一斎のほか,愛日楼,老吾軒など。美濃岩村藩の家老職の家に生まれ,藩主の三男でのちの林述斎とともに儒学を学ぶ。また大坂の中井竹山にも学び,林家の門に入る。述斎が林家を継ぐとこれに師弟の礼をとり,1805年(文化2)には林家の塾長となって門生の教育に当たった。述斎没後の41年(天保12),幕府の儒官となり昌平黌で教えた。その学問は立場上表面は朱子学をとったが,陽明学の影響も強く受け,〈陽朱陰王〉と評された。気一元論,命数論,死生説などに特色がある。温厚篤実な性格で,その門下から安積艮斎,渡辺崋山,山田方谷,佐久間象山,横井小楠,大橋訥庵,中村正直らの多彩な俊秀を出した。著書に《言志四録》および《近思録》《伝習録》《論語》などの欄外書,《愛日楼文詩》《僑居日記》《俗簡焚余》《初学課業次第》などがある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐藤一斎」の意味・わかりやすい解説

佐藤一斎
さとういっさい

[生]安永1(1772).10. 江戸
[没]安政6(1859).9.24. 江戸
江戸時代後期の儒学者。名は坦,字は大道,通称は捨蔵。別号は愛日楼。父は美濃,岩村藩家老信由。中井竹山,皆川淇園,林述斎に学び,文化2 (1805) 年林家の塾長,文政6 (26) 年岩村藩儒官,天保 12 (41) 年江戸幕府儒官となった。官学にあったため,朱子学を講じながらも内実は陽明学に傾いており,陽朱陰王といわれた。門人に安積艮斎 (あさかごんさい) ,渡辺崋山,佐久間象山,中村正直,横井小楠らが輩出した。著書『愛日楼文詩』 (29) ,『言志四録』『初学課業次第』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐藤一斎」の解説

佐藤一斎 さとう-いっさい

1772-1859 江戸時代後期の儒者。
明和9年10月20日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩家老佐藤文永の次男。藩主松平乗薀(のりもり)の子の林述斎(じゅっさい)とともにまなぶ。林家の塾頭をへて昌平黌(しょうへいこう)教授となる。朱子学と陽明学を折衷した学風で,門人に渡辺崋山(かざん),佐久間象山(しょうざん)らがいる。安政6年9月24日死去。88歳。名は信行,のち坦(たいら)。字(あざな)は大道。通称は幾久蔵,捨蔵。別号に愛日楼。著作に「言志四録」など。
【格言など】春風をもって人に接し,秋霜をもって自らつつしむ(「言志後録」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐藤一斎」の解説

佐藤一斎
さとういっさい

1772.10.20~1859.9.24

江戸後期の儒学者。父は美濃国岩村藩家老の佐藤信由(のぶより)。初名は信行のち坦(たいら),字は大道,通称捨蔵,号は一斎のほかに愛日楼・老吾軒。19歳で出仕。藩主松平乗蘊(のりもり)の子でのち林家を継ぐ林述斎と親交を結ぶ。20歳で致仕して学問に専念,22歳で林家に入門,述斎に師事し34歳で塾長。70歳で昌平黌儒官。陽明学に傾きながら寛政異学の禁後の林家塾長の立場から朱子学を掲げたため,陽朱陰王との誹(そし)りもうけた。門下から佐久間象山(しょうざん)・渡辺崋山(かざん)らを輩出。主著「言志四録」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「佐藤一斎」の解説

佐藤一斎
さとういっさい

1772〜1859
江戸後・末期の儒者
美濃(岐阜県)岩村藩士。中井竹山に師事し,林述斎の弟子となった。のち昌平坂学問所の儒官となり,立場上朱子学をとったが,陽明学の影響も濃い。門人に安積艮斎 (あさかごんさい) ・渡辺崋山・佐久間象山らを輩出。著書に『言志四録』『近思録』など。

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367日誕生日大事典 「佐藤一斎」の解説

佐藤一斎 (さとういっさい)

生年月日:1772年10月20日
江戸時代後期の儒学者;林家塾頭;昌平坂学問所教官
1859年没

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世界大百科事典(旧版)内の佐藤一斎の言及

【武士道】より

…〈甲冑ハ辱ム可カラザルノ色ナリ。人ハ礼譲ヲ服シテ以テ甲冑ト為サバ誰カ敢テ之ヲ辱シメン〉という佐藤一斎の言葉は,近世武士社会における礼儀尊重の精神を語るものである。武士【相良 亨】。…

※「佐藤一斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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