侯景(読み)こうけい(英語表記)Hou Jing; Hou Ching

精選版 日本国語大辞典 「侯景」の意味・読み・例文・類語

こう‐けい【侯景】

中国、六朝梁の将軍。字(あざな)は万景。はじめ北魏仕えたが、梁の武帝もとにはしる。のち反し、建康南京)を陥落させて、自ら漢帝と称したが、まもなく、王僧弁らに敗れた。(五〇三‐五五二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「侯景」の意味・わかりやすい解説

侯景
こうけい
Hou Jing; Hou Ching

[生]景明4 (503)
[没]承聖1 (552)
中国,南北朝時代の武将。生地は朔方(陜西省)とも雁門山西省)ともいわれる。北魏で北辺守備の兵士となったのち爾朱栄に仕え,さらに東魏高歓のもとで武将となった。高歓の死後東魏にそむき,梁(→武帝)に帰属。梁と東魏との間に和議が成立しかけたため,太清2(548)年,梁にそむいて(侯景の乱)その首都の建康に迫り,翌年それを陥落させた。天正1(551)年みずから帝位につき国号を漢とし,年号を太始としたが,まもなく王僧弁らに殺され,国も滅亡した。侯景の乱は南朝の没落を決定的にし,六朝文化に大打撃を与えた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「侯景」の解説

侯景(こうけい)
Hou Jing

503~552

朔方(さくほう)(陝西(せんせい)省楡林(ゆりん)県)か雁門(がんもん)(山西省太原市)の人。初め北魏の北辺警備の武将で,北魏末の乱で高歓(こうかん)に従い,東魏河南を守った。のち梁(りょう)に帰属したが,反乱を起こして都の建康(南京)を陥れ,国を漢と号した。やがて敗死したが,南朝の貴族制は大打撃を受けた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の侯景の言及

【侯景の乱】より

…中国,南朝の武帝治下の548年(太清2)8月,南予州刺史の侯景がおこした反乱。侯景は羯族(かつぞく)の出身,東魏からの投降将軍であった。…

※「侯景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android