倉見荘(読み)くらみのしょう

百科事典マイペディア 「倉見荘」の意味・わかりやすい解説

倉見荘【くらみのしょう】

若狭国三方(みかた)郡の荘園。現福井県若狭町倉見を中心に,北方常神(つねかみ)半島西浦の一部(三川浦など)をも含んだ。立荘時期や成立事情は不明だが,1235年には京都新日吉(いまひえ)社領で,数十年来油役を勤仕してきたという。1265年の〈若狭国大田文写〉によると田積は14町余。新日吉社が保持していたのは領家職で,地頭職は鎌倉時代末期に得宗領となる。1411年には荘内〈黒田小野・加屋〉の3(みょう)は京都鹿王(ろくおう)院領となっており,1413年将軍足利義持は〈安禅寺領太郎丸・五郎丸両名,脇山名〉を除く倉見荘を京都等持(とうじ)院に寄進している。鹿王院・等持院とも足利将軍家と深いつながりをもつ寺院であり,いったん御料所化した倉見荘が細分されて寄進されていったと推定される。なお〈三川浦(御賀尾浦)〉(のちの神子浦)は荘内でありながら半ば独立した所領単位であった。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「倉見荘」の意味・わかりやすい解説

倉見荘 (くらみのしょう)

若狭国(福井県)三方(みかた)郡の荘園。現若狭町の旧三方町南部,鰣(はす)川上流域の倉見から横渡・井崎・黒田・田上にかけての地域と,御賀尾浦(旧三方町神子(みこ))など浦若干を含む。1296年(永仁4)の実検田目録には除田・定田ならびに〈加野新田〉合わせて100町歩余を記載する(大音文書)。立荘時期・成立事情は明らかでないが,1235年(嘉禎1)12月15日の延暦寺政所下文(写)に引く同荘雑掌の解(げ)(上申書)には,新日吉(いまひえ)社領として油役を勤仕すること数十年と述べている(同文書)。1265年(文永2)の若狭国大田文(写)では,ほかに天台常寿院領もあったことが判明し(東寺文書),さらに鎌倉末期には信州諏訪下社に贄(にえ)の魚を送進している(大音文書)。室町初期には黒田・小野・加屋の3名(みよう)が鹿王院領となっており(鹿王院文書),同時期の1413年(応永20)には,将軍足利義持が安禅寺領太郎丸・五郎丸両名ならびに脇山名を除く部分を等持院に寄付しているから(等持院常住記録),当時の荘内にはいくつかの社寺領が混在したと見られる。荘名の最終所見は1517年(永正14)2月18日の諏訪神社々殿所役注文案(大音文書)。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android