元田作之進(読み)もとだ・さくのしん

朝日日本歴史人物事典 「元田作之進」の解説

元田作之進

没年:昭和3.4.16(1928)
生年:文久2.2.22(1862.3.22)
明治大正期の牧師,教育者日本聖公会初代邦人主教,立教大学初代学長。久留米藩士の長男として生まれるが幼児期に両親と死別。苦学し,明治8(1875)年,久留米師範学校に入学,最年少で第1回卒業生となり16歳で小学校校長となる。中学校教員を経て,同14年米国聖公会宣教師T.S.ティングの大阪英和学舎に学び,翌年受洗。同19年渡米。帰国するまでの10年間でフィラデルフィア神学院,ペンシルベニア大学で哲学博士号を得るなどし,同派司祭となる。帰国後,立教中学校長となり,他校を放逐された素行不良の生徒を立教中学校に集めた。文部省訓令第12号(1899)の宗教教育禁令では,当局の認可前提で課外宗教教育の存続を図り自派伝道局の理解を得るが,完全な宗教教育の自由を求めて苦闘した他のミッション校とは対決姿勢で一線を画した。同33年3月『基督教週報』主幹となり,良山のペンネーム文才を発揮。大学設置に努め,同40年に立教大学設立とともに校長となる(のち大学令大学となり初代学長に就任)。大正12(1923)年東京教区から日本聖公会初代邦人主教に選出。「温厚玉の如」く,捨身で困難を打開することが道楽と語る教育者。<著作>『日本聖公会史』『老監督ウイリアムス』<参考文献>日本聖公会歴史編纂委員会編『あかしびとたち』,同『日本キリスト教教育史/人物編』

(大江満)

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改訂新版 世界大百科事典 「元田作之進」の意味・わかりやすい解説

元田作之進 (もとださくのしん)
生没年:1862-1928(文久2-昭和3)

日本聖公会の聖職者。久留米藩士の長男として生まれ,1871年(明治4)大阪に出て聖公会宣教師チングT.S.Tyng(1849-1927)に導かれてキリスト教に入信。アメリカ留学後立教大学学長となり(1907),1923年,日本聖公会東京教区設立とともにその初代主教に選ばれた。福音主義に立ち,プロテスタント他教派との協力関係を積極的に樹立した。C.M.ウィリアムズに私淑し,《老監督ウィリアムス師伝》(1914)を著した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元田作之進」の意味・わかりやすい解説

元田作之進
もとださくのしん

[生]文久2(1862).2.22. 久留米
[没]1928.4.16.
日本聖公会の指導者。久留米師範学校を卒業 (1877) ,小学校教員,同校長,中学教員をつとめたのち,1881年大阪川口学校に学び,アメリカ聖公会 (87年他と合併し日本聖公会を名のる) の信仰に入る。アメリカに留学,最後にコロンビア大学で研究して帰国,立教中学校校長,立教大学学長に就任。他方日本聖公会教務院長の職にもつき,1923年には東京教区の初代主教に選ばれた。日本聖公会の初代信徒であると同時に聖公会の指導的立場にあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「元田作之進」の解説

元田作之進 もとだ-さくのしん

1862-1928 明治-大正時代の牧師,教育者。
文久2年2月22日生まれ。アメリカ聖公会宣教師ティングの大阪英和学舎でまなび,明治19年アメリカに留学。帰国後立教中学校長,40年立大の創設で校長,のち学長となる。大正12年日本聖公会東京教区の設立で初の日本人主教となった。昭和3年4月16日死去。67歳。筑後(ちくご)(福岡県)出身。久留米師範卒。

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