元興寺極楽坊(読み)ガンゴウジゴクラクボウ

デジタル大辞泉 「元興寺極楽坊」の意味・読み・例文・類語

がんごうじ‐ごくらくぼう〔グワンゴウジゴクラクバウ〕【元興寺極楽坊】

元興寺旧称

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日本歴史地名大系 「元興寺極楽坊」の解説

元興寺極楽坊
がんごうじごくらくぼう

[現在地名]奈良市中院町

興福寺南方に所在する真言律宗の寺院本尊智光曼荼羅と阿弥陀如来坐像。南都七大寺の一つ元興寺から独立したもので、正式には元興寺と称するが、一般に元興寺極楽坊、極楽坊とよばれる。当寺南方の芝新屋しばのしんや町には華厳宗の元興寺がある。南都の元興寺は現奈良県明日香村の飛鳥あすか寺の別院として創始され、広大な寺地内に多くの堂宇・塔頭が建てられていたが、しだいに荒廃していった。しかし元興寺の中心伽藍からやや離れていた極楽坊は、庶民曼荼羅信仰もあり鎌倉時代から別個の寺院としての性格をもっていったものと考えられる。

大江親通が嘉承元年(一一〇六)に記した「七大寺日記」では、元興寺のうちに「極楽房者智光頼光両聖人之共往生セル房也。(件カ)房ハ塔之北ニ一町許行テ東西ニ横ル連房アリ。其中心馬道アリ。其馬道之東ノ第一房也。其房ニ為智光所現浄土相ヲ図写セル極楽曼陀羅尤可拝見」とみえ、元興寺の房の一つであったが、現本堂棟札に「元興寺極楽坊造営事、寛元二年甲辰四月十五日乙酉柱立、六月二日辛未棟上」などとあり、寛元二年(一二四四)改築が行われてから独立の形態をとっている。また「大乗院寺社雑事記」康正三年(一四五七)四月二九日条の「大乗院家末寺自然ノ所用ヲ仰付寺事」に極楽坊として「此寺者本来聖道ノ住持ノ在所也、然而明教法橋質物ニ取流テ孝覚僧正ニ進上、孝覚僧正始而律院ニ被成了」とあり、興福寺大乗院の支配下に入っているが、元興寺本体は東大寺から別当が出ており、宗教上の性格も異なっていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元興寺極楽坊」の意味・わかりやすい解説

元興寺極楽坊
がんごうじごくらくぼう

奈良市中院(ちゅういん)町にある真言律宗の寺。もとは極楽院、元興寺極楽坊と称していたが、1978年(昭和53)に正称を元興寺と改めた。古くは十輪院(真言宗醍醐(だいご)派)とともに元興寺の子院の一つであったが、鎌倉時代に独立し、庶民の信仰を集めた。極楽坊は奈良時代の三論学匠智光(ちこう)が住したことで知られ、本尊の絹本着色智光曼荼羅(まんだら)図(国の重要文化財)は智光が感得したものと伝える。本堂(極楽堂)と禅室は、もと東室南階大坊(ひがしむろなんかいたいぼう)とよばれた一棟の僧房を鎌倉時代に改造し、独立した建物としたもので、本堂はさらに1244年(寛元2)再建された。禅室は奈良時代の部材が多く用いられており、創建当初の僧房形式を知る貴重な遺構である。また五重小塔は元興寺大塔の雛型(ひながた)と伝えられ、古代建築の貴重な資料として、本堂、禅室とともに国宝に指定されている。そのほか、東門、木造阿弥陀如来(あみだにょらい)像、板絵着色智光曼荼羅図などが国の重要文化財に指定されている。また収蔵庫には千体仏、摺仏(すりぼとけ)、笹塔婆(ささとうば)など中世庶民信仰の遺物を多く蔵している。

[里道徳雄]

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