八十里越(読み)はちじゆうりごえ

日本歴史地名大系 「八十里越」の解説

八十里越
はちじゆうりごえ

福島県南会津郡只見ただみ町境にある。守門すもん(一五三七・六メートル)東側鞍部にあたる五十嵐いからし川と平石ひらいし川の源流付近の峠越の間道。南方の六十里越ろくじゆうりごえとともに、南会津と中越後とを結ぶ踏分道として古くから発達した会津道。道程は、五十嵐川河口の三条宿あるいは村松むらまつ(現中蒲原郡村松町)から五十嵐の谷(現南蒲原郡下田村)をさかのぼってよしひら宿(現同上)で旅装を整え、鞍掛くらかけ峠の難所を越えて木ノ根峠に出、平石川上流の大白川おおしらかわ宿から登る広瀬郷からの道と合流して、会津南山御蔵入みなみやまおくらいり郷の叶津かのうづ(現只見町)に至る。越後側四里、会津側四里の行程

越後名寄」では「八十里越 芦ケ平より奥州叶津道」と記し、見附みつけ杉沢すぎさわ(現見附市)上塩かみしお(現栃尾市)・下田郷・芦ヶ平(吉ヶ平)鞍掛峠木本きのもと(木ノ根)・叶津とつなぐ。芦ヶ平には「是より深山叶津道人跡絶タル山中也」、鞍掛峠には「一足毎ニ自身ノ足形ヲ付ケテ歩行スル大難所也」、木本には「田代平湿原ト称シ、鋤・鍬柄ヲ作ル小屋有、行暮レテハ宿トナル」、叶津には「一里斗行キテ只見川ノ渡シ有」と記される。

八十里越
はちじゆうりごえ

近世の叶津かのうづ村と越後国よしひら(現新潟県下田村)を結ぶ山路で、浅草あさくさ(一五八五・五メートル)の北六キロの鞍部(標高八四五・四メートル)を越える。叶津から峠頂上木の根きのねへ四里、木の根から吉ヶ平へ四里(会津の峠)。天正一六年(一五八八)山内氏勝は家臣横山能右衛門に八十里越の関奉行を命じており(一二月七日「山内氏勝証状」新編会津風土記)、八十里越は六十里ろくじゆうり越とともに山内氏にとって重要な峠路であった。「会津風土記」は「境沢峠」として叶津から同峠に至る二二里余を八十里越といい、この間は馬も通れない道で、吉ヶ平を経て越後長岡へ通ずると記し、「新編会津風土記」は「坂東道八十里あり、因て八十里越の名ありと云」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八十里越」の意味・わかりやすい解説

八十里越
はちじゅうりごえ

福島県南会津郡只見町(ただみまち)と新潟県魚沼市(うおぬまし)の境界にある境沢峠(さかいざわとうげ)(845メートル)を越える峠路。現在は国道289号の一部となっている。近世には叶津(かのうつ)(只見町)から只見川の支流の叶津川沿いに登り、境沢峠、鞍掛(くらかけ)峠(952メートル)を越え吉(よし)ヶ平(現、新潟県三条(さんじょう)市下田(しただ)地区)に出た。叶津と吉ヶ平間が坂東道八十里(6町を1里とする)であったのが地名の由来といわれる。会津と越後(えちご)を結ぶ重要な街道で、叶津には口留番所(くちどめばんしょ)が置かれ、峠には助(たすけ)小屋があったという。

[安田初雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八十里越」の意味・わかりやすい解説

八十里越
はちじゅうりごえ

福島県と新潟県の境,浅草岳 (1585m) と中ノ又山 (1070m) のほぼ中間の鞍部にある峠。標高 845m。地名は福島県只見町叶津から新潟県三条市下田地域の吉ヶ平まで,6町 (約 650m) を1里と計算して約 80里の道程であることに由来する。南方の六十里越に比べ利用が少ない。国道 289号線が通る。

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事典・日本の観光資源 「八十里越」の解説

八十里越

(福島県南会津郡只見町~新潟県三条市)
歴史の道百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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