日本歴史地名大系 「八島」の解説
八島
やしま
八島
やしま
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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日本の芸能,音楽の曲名。
(1)能。観世流は〈屋島〉とも書く。二番目物。修羅物。世阿弥時代からある能。シテは源義経の霊。旅の僧(ワキ)が八島(屋島)の浦へ赴くと,老人(前ジテ)と若者(ツレ)の2人の漁夫がやって来るのに会い,その塩屋に泊めてもらう。老人は僧に求められて,源平の八島の戦の話をする。それは,ひときわ目だった義経の勇姿,悪七兵衛景清(あくしちびようえかげきよ)と三保谷四郎(みおのやのしろう)の錣引き(しころびき)の力競べ,主人をかばって敵の矢を受けて死んだ佐藤継信(つぎのぶ)と菊王のふるまいなどの話であった。語り終わった老人は,自分が義経であるかのようにほのめかして消え失せる。僧は,塩屋の本当の持ち主(アイ)から,老人は実は幽霊であろうと言われる。夜半過ぎに義経の霊(後ジテ)が昔の姿で現れ,八島の戦のさまを物語る。義経は戦いのさなかに弓を海中に取り落としたが,弱い弓であることを敵に知られないために,危険を冒して取り返したという(〈掛ケ合・クセ〉)。そのうちに修羅道の責め苦である戦いのときになり,義経は能登守教経(のりつね)を相手に激戦のていを見せるが,夜明けとともに姿は消え去る(〈カケリ・中ノリ地〉)。
大作の修羅物で,前場は錣引き,後場は弓流し(《弓流》)とまとまった軍(いくさ)話を中心にすえ,がっしりした構成に作ってある。アイの語りには,〈那須与一之語(なすのよいちのかたり)(那須之語)〉〈継信之語〉などの替(かえ)がある。
→那須与一
執筆者:横道 万里雄(2)地歌。尾張の藤尾勾当(こうとう)が安永(1772-81)ころ作曲した三下り謡い物。大坂の木の本巴遊が弾きはやらせた。本調子の替手もある。箏の手は地域・流派によって異なる。京都では八重崎検校,名古屋では吉沢検校の手付けが有名。(1)に取材したものであるが,途中に待謡または間(あいの)狂言の趣で独自のクドキ風の挿入句が入る。地唄舞では,この〈西行法師の嘆けとて……〉の部分から行われることが多く,最初の〈釣の閑(いとま)も波の上……〉から行う場合,井上流では《長刀八島》と称する。能のカケリのところは,砧地入りの合の手となる。
(3)荻江節。荻江里八(のちの3世清元斎兵衛)などが,(2)から移したものか。1879年,花柳流で振り付けられた。
執筆者:平野 健次
幸若舞の曲名。作者不明。上演記録の初見は《言継卿記》の永禄2年(1559)条。山伏姿に身をやつし平泉に落ちる判官義経一行は,奥州信夫(しのぶ)の佐藤の家に宿を取る。接待に出た尼公は,わが子継信・忠信が父庄司の制止を振り切って,源氏の旗揚げに参加したことや2人の帰りを待ちわびた庄司が死ぬとき,嫁たちが兄弟の鎧を着て慰めたことなどを物語る。素性を明かせない義経は弁慶に命じ,廻国の僧を装って継信・忠信の戦場での活躍ぶりや最期のさまを語らせる。悲しむ人々を見て義経はついに身を明かす。尼公は嘆きの中の喜びとしばらく自邸に義経をとどめ平泉の秀衡に使者を立て,秀衡は義経を迎える。宮増作と推定される能の《摂待》や奥浄瑠璃の《尼公(あまぎみ)物語》は同材。この物語は《義経記》にないことなどから,民間に口頭で伝承されていた尼公の物語より材を得たものと思われる。幸若舞の中でも由緒あるものとされ,元祖幸若丸が後花園上皇に節付を命じられ,白山権現の夢想で節付を得た部分があると伝えられる。
執筆者:山本 吉左右
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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