八百屋お七(読み)やおやおしち

精選版 日本国語大辞典 「八百屋お七」の意味・読み・例文・類語

やおや‐おしち やほや‥【八百屋お七】

[一] 江戸前期の江戸本郷の八百屋の娘。天和二年(一六八二)の大火で檀那寺に避難した際、寺小姓と恋仲となり、恋慕のあまり再会を願って放火し、火刑に処されたという。井原西鶴が「好色五人女」に取り上げて以来浄瑠璃歌舞伎に上演・脚色された。天和三年(一六八三)没。
[二] (一)を題材とした浄瑠璃・歌舞伎の通称。浄瑠璃に「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」、歌舞伎脚本に「其往昔恋江戸染」「松竹梅雪曙」などがある。
[三] 浄瑠璃。三段。紀海音作。享保一六年(一七三一)頃大坂豊竹座初演か。西鶴の「好色五人女」の影響作。八百屋の娘お七は、駒込吉祥寺の寺小姓吉三郎と契ったが、家のための縁談が起こり、二度の火難を願い放火。これが露見して捕われ引回しの上、鈴ケ森で処刑される。お七に先立ち、吉三郎は切腹する。

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デジタル大辞泉 「八百屋お七」の意味・読み・例文・類語

やおや‐おしち〔やほや‐〕【八百屋お七】

[1668~1683]江戸前期、江戸本郷にいた八百屋の娘。天和2年(1682)の大火の際に避難した寺で寺小姓と恋仲となり、再会したい一心で放火して、火刑に処された。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられてから、浄瑠璃・歌舞伎などに脚色された。
浄瑠璃。世話物。3巻。紀海音作。正徳4年(1714)から享保2年(1717)ごろ大坂豊竹座初演。を題材とした最初の浄瑠璃作品。別名題「八百屋お七恋緋桜こいのひざくら」。

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改訂新版 世界大百科事典 「八百屋お七」の意味・わかりやすい解説

八百屋お七 (やおやおしち)
生没年:?-1683(天和3)

浄瑠璃,歌舞伎のヒロインとして有名な江戸時代の女性。江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘という。1682年(天和2)12月28日,駒込大円寺から出火,東は下谷,浅草,本所を焼き,南は本郷,神田,日本橋に及び,大名屋敷75,旗本屋敷166,寺社95を焼失,焼死者3500名という大火があった。その際,家を焼かれ,駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避難したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさのあまり,火事があれば会えると思い込み,翌年3月2日夜放火したがすぐ消し止められ,捕らえられて引廻しのうえ,3月29日鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたというのが実説である。吉祥寺門前に住むならず者の吉三郎が,火事場泥棒をするためお七に放火を勧めたという。西鶴の《好色五人女》(1686)や浄瑠璃,歌舞伎で取り上げられるにつれ,お七が焼け出された1682年の大火をお七が放火した火事のように脚色し,〈お七火事〉と呼ぶようになった。
執筆者: 火刑の3年後,西鶴の《好色五人女》の刊行で名高くなり,元禄期(1688-1704)には歌祭文にうたわれて,小姓吉三とともに浮名を流した。歌舞伎では《お七歌祭文》(1706年春,大坂嵐三右衛門座,吾妻三八作)が最も古く,嵐喜代三郎のお七で大当りとなり,翌年の顔見世に江戸中村座に下り,好評を博した。今日に伝えられるお七の紋所〈丸に封じ文〉は喜代三郎の紋が転化したもの。浄瑠璃《八百屋お七恋緋桜(こいのひざくら)》(1717),《伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)》(1773)などがあり,歌舞伎では多く曾我の世界に結びつけて脚色され,八百屋お七物の一系統を形成した。《其往昔(そのむかし)恋江戸染》(1809年3月,森田座,福森久助作)で,5世岩井半四郎がお七を演じ,浅葱麻の葉鹿の子の着付を用い,お七の形象が定着した。そのほか河竹黙阿弥にも諸作があり,恋に死ぬ女性として共感を得た。近代に入ってからも岡本綺堂,真山青果らが劇化している。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八百屋お七」の意味・わかりやすい解説

八百屋お七
やおやおしち

浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)などのヒロインとして有名な女性。巷説(こうせつ)によると、江戸本郷追分(おいわけ)の八百屋太郎兵衛の娘で、1682年(天和2)12月28日に駒込(こまごめ)の大円寺から出火した大火で同地の正仙寺(一説に円乗寺)に避難した際、寺小姓生田庄之助(いくたしょうのすけ)(一説に左兵衛)と恋仲になり、家に戻ったのち、吉祥寺(きっしょうじ)門前に住むならず者吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助と会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して捕らえられ、同29日鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたという。これが小姓吉三(きちさ)とのいわゆる「お七吉三」の悲恋物語として、3年後には井原西鶴(さいかく)の『好色五人女』に扱われ、元禄(げんろく)(1688~1704)ごろには歌祭文(うたざいもん)にうたわれて有名になり、広く劇化されるようになった。浄瑠璃では紀海音(きのかいおん)作『八百屋お七歌祭文』(1704)に始まり、代表作は菅専助(すがせんすけ)の『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』(1773)。歌舞伎では最古の作といわれる『お七歌祭文』(1706)でお七に扮(ふん)した嵐喜代三郎(あらしきよさぶろう)の定紋「丸に封じ文」が、舞台のお七の紋として固定、また福森久助作『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』(1809)で5世岩井半四郎の着た麻の葉鹿(か)の子の着付が、お七の衣装の型になった。これらのお七は、恋人の吉三に会うため、禁制の半鐘または太鼓を打つ「櫓(やぐら)」の場面が中心になっている。なお、近代に入ってからも岡本綺堂(きどう)、真山青果(せいか)らの戯曲がある。

[松井俊諭]

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朝日日本歴史人物事典 「八百屋お七」の解説

八百屋お七

江戸中期,火災の多発した新興都市江戸を象徴する伝説的な女性。それらしい女性が現実に存在したらしいが,諸説あって史実は明確ではない。『近世江都著聞集』や『八百屋お七墳墓記』によれば,天和1(1681)年2月本郷丸山の火災によって類焼,指ケ谷町の円乗寺に避難した八百屋一家のひとり娘お七は,円乗寺の寺小姓左兵衛と恋に落ち,再び恋人に会うため,火事場泥棒の無頼漢吉三郎にそそのかされて同年3月29日放火。当時の法律によって鈴ケ森で火刑となり,左兵衛は出家したという。ふたりとも16歳。なんらかの事件があったことは事実であろう。貞享3(1686)年には井原西鶴の浮世草子『好色五人女』の1編となり,お七の物語が成立した。さらに元禄年間(1688~1704)には歌祭文「八百屋お七歌祭文」が世上に流行してお七伝説が社会全体に浸透した。正徳年間(1711~16)ごろには大坂豊竹座で紀海音作「八百屋お七歌祭文」が上演されたのをはじめ多くの浄瑠璃作品ができ,歌舞伎でも宝永3(1706)年1月大坂嵐座で吾妻三八作「お七歌祭文」が嵐喜代三郎のお七で上演され大当たりをとった。喜代三郎の家紋「丸に封じ文」が以後お七の紋になったほどである。その後,代々の女形が当たり芸にしたが,なかでも4代目および5代目の岩井半四郎父子のお七は大当たりで,お七は江戸のヒロインとして定着し,幕末の河竹黙阿弥にいたるまで実に多くの作品がつくられた。喜代三郎の清純幼稚な少女から半四郎の豊満艶麗な娘へ,そしてついには黙阿弥のお七に女装した男(お嬢吉三)まで。お七の歴史は,江戸という都市の歴史であると同時に江戸の文化史である。<参考文献>『近世江都著聞集』

(渡辺保)

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百科事典マイペディア 「八百屋お七」の意味・わかりやすい解説

八百屋お七【やおやおしち】

江戸本郷の八百屋の娘。1682年12月28日の火事のとき,逃げた先の檀那寺で知り合った寺小姓吉三郎と恋仲になる。火事になれば再会できると思い,翌年3月放火,捕らえられて処刑。事件後3年目に井原西鶴の《好色五人女》に書かれて以来,歌舞伎などで有名。
→関連項目丙午

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八百屋お七」の意味・わかりやすい解説

八百屋お七
やおやおしち

[生]寛文8(1668).江戸
[没]天和3(1683).3.29. 江戸
江戸本郷駒込の八百屋の娘。天和2 (1682) 年 12月江戸の大火で円乗寺に避難の際,寺小姓山田佐兵衛と情を通じ,再会を願うあまり放火,火刑になった。井原西鶴の浮世草子『好色五人女』に書かれて以来,多くの歌舞伎,浄瑠璃に脚色された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八百屋お七」の解説

八百屋お七 やおや-おしち

?-1683 江戸時代前期の女性。
江戸本郷の八百屋の娘。天和(てんな)2年の大火で正仙院(一説に円乗寺)に避難したとき,寺小姓と恋仲になり,再会したい一念から自宅に放火。捕らえられ,天和3年3月29日鈴ケ森で火刑に処せられた。のち井原西鶴(さいかく)の「好色五人女」にえがかれ,歌舞伎,浄瑠璃(じょうるり)などに脚色された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「八百屋お七」の解説

八百屋お七
やおやおしち

1666~83.3.29

江戸前期,江戸本郷の八百屋の女。1682年(天和2)12月の大火で檀那寺に避難した際,寺小姓と恋仲になり,翌年再会するために放火未遂をおこして鈴ケ森で火刑となった。火刑の3年後,井原西鶴(さいかく)の「好色五人女」にとりあげられて有名になり,その後,歌祭文・歌舞伎・浄瑠璃などにも登場した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「八百屋お七」の解説

八百屋お七
(通称)
やおやおしち

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
八百屋お七歌祭文 など
初演
宝永3.1(大坂・嵐三右衛門座)

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世界大百科事典(旧版)内の八百屋お七の言及

【好色五人女】より

…浮世草子。井原西鶴作。1686年(貞享3)刊。5巻25章。各巻すべて当時の歌謡,演劇,歌祭文などで喧伝された著名な事件をとりあげたモデル小説。巻一〈姿姫路清十郎物語〉は,手代清十郎と主家の娘お夏との恋をとりあげ,その駆落ち,清十郎の冤罪(えんざい)による処刑,お夏の出家を描いている。巻二〈情を入れし樽屋物語〉は,樽屋の女房おせんと麴屋(こうじや)長左衛門との姦通が樽屋によって発見され,おせんは自害し,長左衛門は処刑される。…

【天和笑委集】より

…1682年(天和2)11月から翌年2月にかけて,江戸で頻発した大火の見聞記で,細かい記録とともに,物語風に火災現場で活躍した人や放火犯人の様子などを書いている。とくに第11巻から第13巻までは,八百屋お七の事件を詳しく取り扱っていて,西鶴の《好色五人女》の素材として参考にすべきものが少なくない。【野田 寿雄】。…

【放火】より

…しかるに人口の集中により,都市は内部に多数の貧民をかかえることになって,物取り目的の放火や衝動的な放火が相次いだ。江戸における名高いものに八百屋お七(1683処刑)の放火および目黒行人坂(ぎようにんざか)の大火(1772)がある。前者は小説,浄瑠璃,歌舞伎にとり上げられ伝説化した事件であり,後者は明暦の大火(1657)に次ぐ大火災(明和の大火)であった。…

※「八百屋お七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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