公孫氏政権(読み)こうそんしせいけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「公孫氏政権」の意味・わかりやすい解説

公孫氏政権
こうそんしせいけん

中国、後漢(ごかん)時代末期から三国時代初期に、漢人の公孫氏3代(度(たく)・康(こう)・淵(えん))が50年にわたって遼東(りょうとう)半島に樹立した地方政権(190~238)。当時の東アジア世界は、中国では後漢帝国の崩壊から魏(ぎ)・呉・蜀(しょく)の三国の対立抗争の時代に入り、東方諸国の高句麗(こうくり)や邪馬台国(やまたいこく)が中国の政治情勢に関与していくという複雑な国際関係を形成していた。中国の分裂王朝と東方諸国とを仲介する位置に自立した公孫氏政権の存亡は、2世紀末から3世紀初めの東アジア世界の国際関係において重要な役割を果たした。

 公孫氏政権の創始者となった遼東郡襄平(じょうへい)の人公孫度(?―204)は、玄菟(げんと)郡の小吏からやがて遼東太守に任命されると、郡中の豪族を従えたばかりでなく、高句麗や西方烏丸(うがん)にまで威を振るった。190年、董卓(とうたく)が後漢の献帝を擁して中国が内乱状態に入ると、度はこれに乗じて自立し、遼東侯・平州牧と称して遼西、中遼2郡と山東半島東莱(とうらい)郡の諸県を領域として治めた。都の襄平には、前・後漢朝の祖、高祖劉邦(りゅうほう)と光武帝劉秀の廟(びょう)を建て、漢王朝の権威を継承する意志を明確にし、また中国の皇帝の制度に倣って天地の祭祀(さいし)や藉田(せきでん)の礼などを行った。

 204年、度が死に、子の康(?―221)の時代になると、領域は遼東、玄菟、楽浪、帯方の4郡にまで拡大し、韓(かん)、倭(わ)の諸国を服属させ、高句麗、夫余(ふよ)、烏丸にも勢力が及んだ。邪馬台国は、このときから公孫氏政権に服属することになる。しかし、207年に遼東に逃れてきた袁尚(えんしょう)らの首を曹操(そうそう)に送って、襄平侯・左将軍の位を授けられているように、中国の王朝から完全に自立することはできなかった。

 康の死後は、子の淵(えん)(?―238)が幼少であったため、弟の恭が遼東太守となり、221年には魏の文帝から車騎将軍・平郭侯を与えられている。

 228年、病弱であった叔父の恭の位を奪った淵も、魏から揚烈将軍・遼東太守の官を授かっている。淵の時代は、中国で三国の抗争が本格化したので、公孫氏政権と魏・呉朝との外交関係が複雑に展開した。まず232年、呉は対立する魏の背後に位置する公孫氏政権に使者を派遣したが、淵もこれに応じて呉に内属する意の上表文を贈った。翌年、呉の孫権(そんけん)は淵を燕(えん)王に冊封し、珍宝を贈り届けようとしたが、淵は態度を急変させて呉の使者の首を魏に送り、魏の明帝から大司馬・楽浪公を与えられている。その後237年、魏は毌丘倹(かんきゅうけん)に淵の討伐を命じたが、淵はこれを破って魏からの完全な自立を成し遂げ、燕王と称して百官を置き、年号も紹漢(漢を継承する意)と定めた。しかし、238年、魏は太尉司馬懿(しばい)に4万もの兵を率いさせて淵を攻撃させた。淵は父子ともに斬殺(ざんさつ)され、首を洛陽(らくよう)に送られた。ここに公孫氏政権は終わりを告げる。

 公孫氏政権は漢人の地方政権として自立しながらも、絶えず中国の王朝との政治的な関係をもたざるをえなかったこと、とくに三国時代の魏と呉との南北の対立抗争のなかで外交政策が不安定に揺れ動いたこと、などの事実のなかに当時の東アジア世界の動向を読み取ることができる。翌239年、公孫氏政権に内属していた邪馬台国の使節が魏から親魏倭王の金印を授かったことも象徴的な事件である。

[鶴間和幸]

『西嶋定生著『親魏倭王冊封に至る東アジアの情勢――公孫氏政権の興亡を中心として』(『中国古代国家と東アジア世界』所収・1983・東京大学出版会)』

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