公廨稲(読み)くがいとう

精選版 日本国語大辞典 「公廨稲」の意味・読み・例文・類語

くがい‐とう ‥タウ【公廨稲】

〘名〙 令制で、諸国で公田賃租の地子稲や、正税の一部をさいて出挙(すいこ)して得た利を官司入用官人俸給にあてた稲。官物の欠損未納を填補し、国儲(こくちょ)にあて、残りを国司が配分する。配分比率は変化があるが、守六分(十六分の六)、介四分、掾三分、目二分、史生一分。出挙稲(すいことう)。くがい。
続日本紀天平宝字二年(758)五月丙戌「大宰府言、承前公廨稲合一百万束、然中間官人任費用、今但遺一十余万束」

くげ‐とう ‥タウ【公廨稲】

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デジタル大辞泉 「公廨稲」の意味・読み・例文・類語

くがい‐とう〔‐タウ〕【×廨稲】

律令制で、諸国に置かれた官稲の一。正税の一部を出挙すいこし、その利益を官司の入用や官人の俸給に充てた稲。くげとう。

くげ‐とう〔‐タウ〕【×廨稲】

くがいとう(公廨稲)

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改訂新版 世界大百科事典 「公廨稲」の意味・わかりやすい解説

公廨稲 (くがいとう)

古代の官稲の一種。745年(天平17)11月,従来の国司借貸制および公用稲(国儲)の制を継承し,諸国の正税を割いて国別に設置された出挙稲(すいことう)で,その本稲数は,大国40万束,上国30万束,中国20万束(ただし大隅・薩摩は各4万束),下国10万束(ただし飛驒・隠岐・淡路は各3万束,志摩・壱岐は各1万束)と定められた。757年(天平宝字1)の公廨処分式によれば,まず官物(かんもつ)の欠負未納を補塡し,次に国儲(朝集使などの在京費用および向京担夫の粮料支弁)に割き,残余を国司の俸料として長官6分,次官4分,判官3分,主典2分,史生1分の割合で配分することがみとめられた。この方式でゆくと,公廨稲による国司の得分は,国によって多少があるが,平均1分2000束程度となり,国司にとって最も魅力のある収入源であった。〈公廨〉とは〈官舎〉の意で,公廨稲とは本来国衙の雑用を支弁する出挙稲を意味するが,しだいに国司の給与とみなされるようになった。平安時代前期における各国別の公廨の本稲数については,弘仁・延喜の両主税式にくわしい。なお一般の公廨のほかに,大宰府官人に対する府官公廨(合計100万束)が筑前筑後肥前肥後・豊前・豊後6国に,鋳銭司官人に対する鋳銭司俸(合計5万6000束)が備後・周防両国に置かれていた。このような公廨稲制度も,律令制の衰退とともに衰え,平安後期には形骸化した。
官稲
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「公廨稲」の意味・わかりやすい解説

公廨稲
くがいとう

「くげとう」とも読む。律令(りつりょう)時代に行われた公出挙(くすいこ)稲(国家が行う稲の貸付)の一種。公廨とは官衙(かんが)を意味するが、この場合は地方の国衙における財政運用のためというより、国司の俸禄(ほうろく)たる公廨田からの収入を補充するものとして名づけられたらしい。政府は公出挙の利稲収入を安定した財源として重視し、745年(天平17)に論定(ろんてい)稲と公廨稲を設定、国の等級別の出挙額を決定した。論定稲はその利稲で中央・地方の財政をまかなうためのものであり、公廨稲はその利稲で論定稲の未納その他の理由による欠損の穴埋めをし、その残額を一定の割合で国司の間で配分して個人的な収入とさせるものである。

 この制度は、諸国の財政運営を国司の功利心に訴えて行おうとするもので、一種の請負制ともいえる。平安時代になると、公廨稲はその本来の使命を離れて国司の俸給の主要なものとみなされ、国司の地位を利権視する風潮を招くに至った。

[虎尾俊哉]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「公廨稲」の解説

公廨稲
くげとう

「くがいとう」とも。正税の保全を図るため,745年(天平17)11月に制定され,翌年1月に施行された官稲の制。正税から大国40万束,上国30万束,中国20万束,下国10万束の穎稲(えいとう)を割いて出挙(すいこ)し,利稲を官物の未納・欠損の補填,国儲(こくちょ),国司得分にあてた。分量は正税とほぼ同量。公廨稲制度は糙成(ぞうせい)(穎稲の稲穀化)の実施とあいまってはじめて円滑に機能する。そのため798~800年(延暦17~19)に一時公廨稲を停止し,国司得分を国司俸として一本化し,出挙利稲の稲穀による収取によって,正税(とくに稲穀)の保全を図った。公廨稲の用途のうち,正税補填と国儲の額は平安初期に定量化され,公廨稲は実質的には国司の給与として機能するようになった。なお国司得分としての機能は,国司借貸制の機能をうけつぐものである。

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百科事典マイペディア 「公廨稲」の意味・わかりやすい解説

公廨稲【くがいとう】

〈くげとう〉とも。律令時代の地方財源。諸国に蓄積された租の一部を毎年出挙(すいこ)し,その利息はまず租税の未収分などにあて,次いで国司が分配して収入とする。公廨は官衙(かんが)の意。745年に各国別に設定され,公廨稲の額は大国・上国・中国・小国ごとに定められた。平安時代になると,国司の赴任は公廨稲収入が目的といわれるようになり,本来の国衙の財源ではなく,国司の給与とみなされるようになった。
→関連項目正税

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「公廨稲」の意味・わかりやすい解説

公廨稲
くがいとう

「くげとう」とも読む。天平 17 (745) 年,諸国におかれた出挙 (すいこ) 用官稲の一つ。諸国の国衙では,一定額の官稲を農民に出挙し,その利子 (利稲) を官衙の雑費と官人の給与にあてた。これを公廨稲という。国司のなかにはこれをむさぼるものもあり,弊害を生じたため,天平宝字1 (757) 年,その処分率を明確に定めた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「公廨稲」の解説

公廨稲
くがいとう

律令制において地方官庁の費用にあてられた出挙 (すいこ) 稲
「くげとう」とも読む。745年諸国の租稲を農民に出挙し,その利益を国衙 (こくが) の費用と官人の俸給にあてた。国司の俸給と化したので,757年分配比率を明確にした。

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世界大百科事典(旧版)内の公廨稲の言及

【外官】より

…令には,新任の際の給粮,勤務時間,勤務年限,親属・賓客の饗応の禁止など,勤務形態について種々の規定がある。封禄としては,季禄(きろく)がない代りに公廨稲(くがいとう)が給されたが,国司が私腹を肥やす弊害を生じたので,757年(天平宝字1)その配分法が定められた。しかし経済的な待遇は,京官よりもはるかに有利であった。…

【正税】より

…まず744年に正税から国別に4万束が割り取られ国分寺・尼寺に各2万束が施入され,出挙した利息を造寺用に充てるという処置がとられる。翌745年にはこれまで正税の出挙額は国によって大差があったのを国の等級別に正税出挙の定数(論定稲)が決められ,さらに公廨稲(くがいとう)という別枠の出挙稲として若干の例外はあるが大国40万束,上国30万束,中国20万束,下国10万束が設定された。さきに一本化された正税は公廨と正税という二大出挙稲に分離されたことになるが,公廨稲制度は出挙した利息で国司の給与や正税を中心とした官物の欠負・未納を補塡する費用などに充て,正税の運営を円滑にするために設けられたもので,膨張する国衙財政を安定させるための施策であった。…

【出挙】より

…稲穀出挙には大(正)税以外に郡稲,公用稲,駅起稲ほかの雑官稲の出挙があったが734年に一部を除いて正税にまとめられ,残る駅起稲なども739年に正税に混合され大規模に運用されることとなった。さらに745年には国の等級別に正税出挙の定数が定められ,ほかに公廨稲(くがいとう)という別枠の出挙稲が大国の40万束を最高にほぼ10万束単位で設定された。ここに至って公出挙制は完全に税制として機能することになる。…

※「公廨稲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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