内藤魯一(読み)ないとうろいち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「内藤魯一」の意味・わかりやすい解説

内藤魯一
ないとうろいち
(1846―1911)

自由民権運動家、政治家。弘化(こうか)3年10月6日、福島藩家老職の家に生まれる。1869年(明治2)藩主三河国(愛知県)重原(しげはら)移封に伴い、重原領の大参事となり、廃藩後は開墾事業など、士族授産に努めた。1874年板垣退助(たいすけ)らの民撰(みんせん)議院設立の建白に共鳴し、1879年近在の同志と自由民権政社「交親社」を組織し、東海地方の民権運動の嚆矢(こうし)となった。国会期成同盟を結成した1880年の愛国社大会および1881年の自由党の結成に際しては、いずれも幹事となり、また『自由新聞』の発刊有一館(ゆういつかん)(自由党の壮士養成所)の設立などにも尽力し、民権運動の指導的役割を果たした。晩年は立憲政友会に属し、衆議院議員として活躍した。明治44年6月29日死去。

[日比野元彦]

『知立市歴史民俗資料館編、長谷川昇監修『内藤魯一自由民権運動資料集』(2000・知立市教育委員会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「内藤魯一」の意味・わかりやすい解説

内藤魯一 (ないとうろいち)
生没年:1846-1911(弘化3-明治44)

自由民権家。福島藩家老の家に生まれ,維新後,藩主の転封により三河国に移って藩大参事となった。1879年三河交親社を結成して愛知県下の有志を組織し,国会開設請願運動に参加。81年自由党結党に際して常議員となり,83年立憲改進党を激しく攻撃。84年自由党の壮士養成所有一館の館長となった。のち愛知県会議長をつとめ,また政友会に所属して衆議院議員に当選2回。
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朝日日本歴史人物事典 「内藤魯一」の解説

内藤魯一

没年:明治44.6.29(1911)
生年:弘化3.10.6(1846.11.24)
明治期の自由民権家,政治家。福島藩家老内藤豊次郎,まきの長男として生まれる。維新後転封で三河重原(愛知県刈谷市)に移り,明治12(1879)年三河交親社を結成,愛知県自由民権運動の育成に貢献した。14年自由党結成に際し幹事となり,のち有一館長となったが,19年7月加波山事件犯人蔵匿の罪で軽禁固2カ月,罰金5円を言い渡され,入獄。国会開設後,衆院議員選挙に出馬したが,落選を重ね,38年初当選。当選2回。<参考文献>長谷川昇「内藤魯一・床林一正文書を中心とした愛知県自由民権運動史」(『東海近代史研究』2,3,5号)

(寺崎修)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤魯一」の解説

内藤魯一 ないとう-ろいち

1846-1911 明治時代の自由民権運動家,政治家。
弘化(こうか)3年10月6日生まれ。陸奥(むつ)福島藩家老の子。維新後,藩主の移封で三河(愛知県)重原にうつり藩大参事となる。明治12年三河交親社を結成,民権運動をすすめた。自由党幹事,有一館館長をつとめ,19年加波山事件で入獄。38年衆議院議員(当選2回,政友会)。明治44年6月29日死去。66歳。号は萩平,参河山人。

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