円通寺(読み)エンツウジ

デジタル大辞泉 「円通寺」の意味・読み・例文・類語

えんつう‐じ〔ヱンツウ‐〕【円通寺】

青森県むつ市新町にある曹洞宗の寺。山号は吉祥山。開創は大永2年(1522)、開山は宏智聚覚こうちじゅがく。恐山として有名。大祭は7月20~24日。→恐山

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精選版 日本国語大辞典 「円通寺」の意味・読み・例文・類語

えんつう‐じ ヱンツウ‥【円通寺】

[1] 京都市左京区岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大悲山。後水尾天皇の離宮を延宝六年(一六七八霊元天皇の勅により禅寺としたもの。開山は翁。叡山を借景にした枯山水の庭園(国名勝)で知られる。他に同名の寺は、青森県、岡山県など方々にある。
[2] 〘名〙 (縁通ぜず、ということを、寺号にかけていうしゃれで、「遠通寺」「縁通寺」とも書く) 関係のないこと。かまわない。転じて、音声や意味などの通じにくいことにもいう。文化年間(一八〇四‐一八)に江戸赤坂にあった円通寺の釣り鐘のことで寺社奉行が失職したことがあったが、一般の人には縁のないことであったので、それをもじったものといわれる。〔諺苑(1797)〕

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日本歴史地名大系 「円通寺」の解説

円通寺
えんつうじ

[現在地名]竹野町須谷

須谷すだに集落西方にある。万年山と号し、本尊釈迦如来。臨済宗南禅寺派。正しくは円通興国禅えんつうこうこくぜん寺。大明禅寺開山月庵和尚行実(大明寺蔵)によると、康応元年(一三八九)山名時義が、深く帰依していた月庵宗光を開山に請じて創建。月庵は貞治六年(一三六七)但馬の黒川くろがわ(現生野町)に止錫して庵室を構えたが、名声を聞いて多くの僧や帰依者が集まり、ついに大明だいみよう寺を開き、但馬では円通寺のほか大同だいどう(現山東町)も開いている。月庵・時義はともに康応元年に没したが、時義の法号は円通寺殿大等道均といい、当寺に墓があり、木像も蔵している。月庵五八歳の寿像で自賛がある月庵の頂相も当寺に伝わる。時義は当時に葬られたとする所伝(但馬村岡山名家譜)は、信じてよかろう。時義の子時熙は父の素意をついで康応二年三月一四日、「竹野郷内曾木谷」を寄進するとともに(同日「山名時熙寄進状」但馬村岡山名家譜)、仏殿以下伽藍を整え、さらに根本寺領として因幡国津井つのい(現鳥取市)を寄付、明徳五年(一三九四)津井郷は改めて足利義満から寄進された(同年四月一九日「足利義満寄進状案」円通寺文書、以下断りのない限り同文書)。時熙はさらに応永一三年(一四〇六)には、当寺二世太有理有の塔所大智だいち庵の敷地を安堵し(同年三月二三日山名時熙大智庵敷地安堵状案)竹野たかの郷地頭・領家職内田地二町四反余と阿古谷・山崎村の山林を同じく大智庵に寄進している(応永一三年三月二六日山名時熙寺領寄進状写)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]庄原市本郷町

こう山の中腹にあり、慈高山と号す。臨済宗妙心寺派で本尊千手観音。本堂および厨子一基が国の重要文化財に指定される。じび庄の地頭山内通資が甲山に居城を築き、一族の精神的よりどころとして建立した菩提寺で、正中元年(一三二四)京都嵯峨天龍寺の玉洲を招請し開山とし、天文年中(一五三二―五五)山内直通が中興したと伝える(芸藩通志)

甲山には築城以前から観音堂があったといわれ、「芸藩通志」は「聖武天皇の時、行基此地に来り、高山に入り、栗の大樹を伐て観音地蔵・毘沙門の像を造り堂を建て、高山千手堂と呼ぶ(中略)故に里民、栗木の屐を用ひず」と記す。江戸時代の伝承に「甲山古城跡根元観音道場也」(近郷古事漫筆「庄原市史」所収)とあるように、古くより信仰の地であった甲山に、山内通資が城を築くにあたって、観音堂を発展させ氏寺としたものとみられる。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]宇佐市南宇佐 円通寺

宇佐神宮の北方、南宇佐の北部にあり、霊松山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は聖観音。寛元元年(一二四三)開山神子栄尊が宋から無事帰還できたことを宇佐宮に感謝し、その礼として当地に一寺を開いたという(「栄尊和尚年譜」続群書類従、「大分県社寺名勝図録」など)。開基は宇佐公仲で、宇佐大宮司家宮成氏の菩提寺であった。また一一世紀半ばに後冷泉天皇の勅願によって大尾おおお山北麓に建立された蓮台れんだい寺の寺基を継承する寺院とも伝える。開山栄尊は天台兼修の臨済僧で、豊前国に禅宗を弘通させた人物とされ、また宇佐宮弥勒寺金堂の改築を計画、尽力している。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]むつ市新町

しん町の東に位置する。吉祥山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に

<資料は省略されています>

とある。大永二年(一五二二)の創建で、開基は根城南部氏、開山は下総国関宿せきやど(現千葉県東葛飾郡関宿町)東昌とうしよう寺三世能正の弟子聚覚と伝える(新撰陸奥国誌)。万治二年(一六五九)六世大休が再興に当たり、中興の祖とされる。同年の円通寺家材木伐採許可書(日本林制史資料)によれば、有戸ありと(現上北郡野辺地町)から家材木一九本の伐採が行われている。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]高野町高野山

蓮華れんげ谷から南へ一山越えた清閑な谷間にあり、本堂・坊舎(庫裏)・鐘楼門・宝庫・鎮守社・所化寮などの建物からなる。霊岳山律蔵院と号し、本尊は釈迦如来(木造坐像、国指定重要文化財)。宝庫には多数の聖教典籍を蔵する。古くは専修往生せんじゆおうじよう院と称し、高野山の別所のうち教懐によって開かれた小田原おだわら別所、覚鑁系の徒によって相続されたなか別所、明遍によるひがし別所に対してしん別所(真別所)ともよばれた。空海の十大弟子の一人智泉の開基と伝え、智泉没後荒廃していたのを奈良東大寺再建の大勧進職をつとめた俊乗房重源が再興、専修念仏の道場としたという。重源による再興がいつか明らかでないが、重源は安元二年(一一七六)頃から高野山との関係のあったことが延寿えんじゆ院鐘銘によって知られ、「高野春秋」文治三年(一一八七)四月二四日条に「重源法師字俊乗房絶新別所蓮社之交、赴鎌倉」とあり、新別所で結ばれていた二十五三昧講から脱講していることから、この間に再興したものと思われる。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]栃木市城内町二丁目

天台宗。星住山松樹院と号し、本尊は千手観音。天長二年(八二五)太平おおひら山上に円仁により創建されたと伝える。天台宗密教修行の道場として多数の末寺を擁したが、南北朝期に衰微、等海により中興されたという。なお等海は宗大事口伝抄の清書を貞和五年(一三四九)に終え(「同書自跋」渋谷亮泰蔵)、明徳三年(一三九二)には西御にしみ(中泉庄か)西牛久にしうしく(現下都賀郡大平町)談所で法華品々観心聞書を書写している(「同書奥書」日光天海蔵)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]益子町大沢

大羽おおば川左岸台地上にある浄土宗名越派本山で、山号は大沢山。本尊は阿弥陀如来。当寺蔵の円通寺記録によれば、応永九年(一四〇二)良栄が芳賀郡舟橋ふなばし郷に一宇を建立し、虎渓院と号したことに始まるとされる。しかし当寺蔵の「初額題額集別紙」の奥書には応永二年「於野州大平舟橋談所写之」とあり、すでに同年には大平おおひらの地に舟橋談所が設けられて学問研究の場となっていたことがわかる。この談所がのちに大沢おおさわ文庫とよばれるようになる。良栄は当地の領主大沢八衛門の帰依を受け、山林田畑圭田二反・経読田八反を寄進されたという(円通寺記録)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]氷上町御油

加古川の右岸、御油ごゆの西山麓に位置する。曹洞宗、永谷山と号し、本尊如意輪観音。曹洞宗の中本山。俗に井中いなかの円通寺とよばれる(丹波志)。永徳二年(一三八二)室町幕府将軍足利義満の建立、足利尊氏の第四子英仲の開山と伝える。後円融天皇の勅願所となり、後小松天皇も同師に深く帰依し、南北朝合一を祈願して自刻の如意輪観音を下賜した。現本尊という。初め英仲一派の無本寺として但馬・播磨・摂津等に合せて二〇〇余の末寺を有したと伝える。二代住職が関白近衛道嗣の第三子牧翁であるなど天皇家・関白家・足利家と深いつながりをもつ。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]八幡町麓

ふもとの東部山麓、観音寺かんのんじ城跡の南にある。見竜山と号し、曹洞宗。本尊観音菩薩。「三代実録」貞観七年(八六五)五月八日条に「以出羽国観音寺預之定額」とある観音寺に比定される寺が所々にあり、当寺もその一つ。寺伝によれば応永二五年(一四一八)竜沢りゆうたく(現福井県坂井郡金津町)の大宗禅乗が当地を巡錫した際、荒廃していた当寺を中興開山、堂宇の再興を図り曹洞宗に改宗して円通寺と号した。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]大垣市西外側町

大垣八幡宮の南、水門すいもん川右岸に位置する。浄土宗に属し、旭光山遍照院と号する。本尊は阿弥陀如来。慶長六年(一六〇一)戸田氏鉄が近江膳所ぜぜ(現滋賀県大津市)に居城したとき同地に建立、戸田氏の菩提寺として円通寺と称する。同三年草創、同六年再建との説もある。開山は玄誉歴山。元和三年(一六一七)氏鉄が摂津尼崎あまがさき(現兵庫県尼崎市)へ移るとき円通寺二世当誉が従い堂宇を進営して円通寺と称した。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]峰町佐賀

佐賀さか館跡の東、寺の前てらのまえにある。海岸山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。裏山に宗家の墓所(県指定史跡)があり、宝篋印塔が並ぶ。寺号は宗貞盛の法号円通寺殿に由来するとされ(宗氏家譜)、宗氏の佐賀三代の菩提寺であった。文宗二年(一四五二)朝鮮王朝は貞盛の死に際して李堅義らを派遣して弔わせたが、その復命書に閏九月二日「円通寺に至りて奠を致す」とある(「朝鮮王朝実録」端宗零年一〇月乙巳条)。本尊の銅造薬師如来坐像(県指定文化財)は高麗仏で、総高五七・四センチ。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]枚方市津田元町二丁目

浄土宗、山号遺教山、本尊阿弥陀如来。もと津田つだの南東、えんず谷の口の平瀬くちのひらせにあった。天和二年(一六八二)成立の「当郷旧跡名勝誌」の「円通寺事」に「津田村札場ヨリ五丁計リ午ノ方ニ円通谷ト云フ字ノ山谷アリ、此谷口ニ往昔ニハ円通寺ト云大寺在リトナン」として、惟喬親王が当地で狩猟のとき門前に雪女が現れたこと、のち円通谷の奥で光物が出て障害があったため住僧なく、修行をつんだ山伏が「天ニ二足地ニ八足ノ者」すなわち蟹の化生を祈りによって退治したが、その後寺は衰退したことなどを記す。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]水戸市千波町 舟付

千波せんば湖南方の高台に位置する。弥富山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。

「水戸市史」によるともと天台宗で、常陸大掾氏の菩提所であった。また元亨元年(一三二一)常磐ときわ(現宮町の東照宮付近)に建立とも伝える。のち大掾氏に代わりこの地方の領主となった江戸通泰が末弟独放鈍聚を中興開山とし文明一六年(一四八四)曹洞宗に改めた。天正一八年(一五九〇)江戸氏の滅亡、佐竹氏の水戸進出の際大足おおだら(現東茨城郡内原町)に退転、常磐山には太田(現常陸太田市)から佐竹氏外護の天徳てんとく寺が移転した。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]小城町大字松尾字三間寺

松尾山光勝こうしよう寺の東方、平地部に位置し、参道が南に走る。三間山円通興国禅こうこくぜん寺と称し、臨済宗南禅寺派。本尊は千手千眼観音。

由緒記によると、白雉元年(六五〇)、筑後国三箇さんか村の郡司三池氏の嫡子がこの寺を建て三箇寺と称したという。その後三間さんげん寺と改め、天台宗に属した。建長元年(一二四九)八月日付の僧貞弁領知所々注進状(下総中山法華経寺蔵)に「三間寺免二丁本領主進士太郎」とみえる。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]楠町大字東吉部

東吉部ひがしきべの北東部、厚東ことう川が東側の山寄りに大きく迂回する小丘の裾にあり、寺の下を舟木市ふなきいちから萩に至る旧往還が通る。浄土真宗本願寺派で観音山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、大内氏時代に守護代で荒滝あらたき城の城主であった内藤隆春の祈願所で、初めは真言宗であったという。しかし内藤氏が吉部を退転したので衰退し、小庵となって宝永七年(一七一〇)には吉部の浄土真宗常光じようこう寺の抱えとなっていた。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]成田市大室

豊饒山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は千手観音。寛文四年(一六六四)の豊饒山円通寺縁起略(寺蔵文書)によれば、神護景雲年間(七六七―七七〇)に桓武天皇の兄にあたる開成大師が五穀豊穣を祈願して開山したという。もとは法相宗であったが戦乱により法脈も絶え、真言宗・天台宗と変わり寺勢も衰微した。中世に入って助崎すけさき(現下総町)城主大須賀胤輝が堂宇を再建し、鎌倉建長寺の国一禅師を招いて中興開山とし臨済宗に改宗した。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]熱田区新宮坂町

補陀山または羽休山と号し、曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。当寺を「金鱗九十九之塵」は「新宮坂町」とするが、「雑志」は「田島町」、「尾張志」は「田島小路」とする。新宮坂しんぐうさか町筋の東南、田島たじま小路の南端にあった。ここの地名をいにしえ松下まつしたといい、一宇の観音堂があったが、嘉吉年中(一四四一―四四)熱田社祝師田島丹波がこの観音に深く帰依して伽藍を建立し、松露山円通寺と号したという。開山は誓海義本(大明禅師、文明二年没)。観音堂時代は天台宗であったようである(金鱗九十九之塵)

「雑志」は「寺僧云」として、宝徳年中(一四四九―五二)の開基とする。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]八王子市高月町

恵日山観音院と号し、本尊聖観音。天台宗。讃誉(天暦年中没)の開山と伝える。戸倉とくら山田やまだ草花くさばな二宮にのみや(現あきる野市)を転々としたとされ、現在地は修験喜見坊の跡地であるという。天正一九年(一五九一)一一月観音寺領として朱印一〇石を与えられ、また拝島はいじま大日領として二石も付された(御朱印帳)。尊泰(寛文三年没)が中興、上野寛永寺末で、塔頭三・末寺九・門徒一六、境内三万坪であったが(武蔵名勝図会)、延宝―天和年間(一六七三―八四)に火災で焼失。天保三年(一八三二)および安政四年(一八五七)再建された本堂と庫裏は昭和二〇年(一九四五)空襲で全焼。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]左京区岩倉幡枝町

大悲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は聖観音。延宝六年(一六七八)霊元天皇の乳母円光院文英尼が妙心寺の禿翁を請じて開山とし、開創された。当地はもと霊元天皇の父後水尾院の山荘、幡枝はたえだ御所が営まれていたが(「隔記」慶安二年九月一三日条)、後水尾院が修学院しゆがくいん(現左京区)の茶屋(離宮)を造営したのち、寛文一二年(一六七二)幡枝御所の山上の茶屋は近衛家に下賜され、同じく御殿・庭園は霊元天皇と文英尼の山荘とされた(東北歴覧之記)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]鏡野町寺和田

寺和田てらわだのうち上村かみむらにあり、この地は近世には寺和田村枝村香々美上かがみかみ村に属した。宝寿山と号し、高野山真言宗、本尊は千手観音。寺伝によれば、弘仁年間(八一〇―八二四)空海の開基と伝える。永禄年間(一五五八―七〇)桝形ますがた城が宇喜多勢の攻撃を受けると、城主福田玄蕃勝昌は当寺を外衛としたため兵火にかかり焼失。その後寺地を西に三町ほどの現在地に移して再建したという。「作陽誌」に什物の五大尊画像にまつわる挿話がみえる。すなわち五大尊画像は永禄年中の合戦のとき毛利勢の軍兵に略奪されて芸州仙光寺に売渡された。ある夜仙光寺の寺僧は夢中で、尊像は美作国円通寺の五大尊なりと告げられた。僧は深く感じて円通寺を訪れたが住持快真は不在、快真のあとを追って紀州高野山に登り返却したという。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]掛合町多根

中多根なかたね集落北方の山中にあり、臥龍山と号し、天台宗。行基の創建と伝え、本尊如意輪観音も行基の作と伝える。行基がこの山に登った際大雨にあい、雨宿りをしたとき竜がいたのにちなみ、臥龍山とよぶようになった。そして如意輪観音像を刻んで安置し、観音の普門円通の因縁をもって円通寺と名付けた。康保―安和(九六四―九七〇)頃性空が来て僧坊を建てたので、性空を中興開山とする(掛合町誌)。寺に伝わる記録は度重なる火災で焼失して真偽は不明。境内北の丘陵に数十基の五輪塔がある(同書)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]豊橋市上野町

清原山と号し、臨済宗。もと東観音とうかんのん寺末。建武二年(一三三五)中国宋代の人清拙大鑑の開山。高足たかしに住む清原九郎兵衛の開基という。清拙が京都建仁寺から輪住のため鎌倉建長寺へ東下の途中、清原九郎兵衛に請われて、自賛の寿像(清拙禅師頂相)を贈ったという。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]五城目町富津内下山内

下山内しもさんないの集落東端にあり、阿仁あにへ抜ける五城目街道に面している。曹洞宗、楞厳山と号し、本尊は観世音菩薩。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「楞(厳)院」とあり、寺領二六石を受けている。

文化六年(一八〇九)円通寺を訪れた菅江真澄は「三浦統と斎る木主の四牌」を「ひなの遊」に図示している。文正元年(一四六六)、明応九年(一五〇〇)、享禄二年(一五二九)、天正八年(一五八〇)の年号がみえ、文正元年の木主には「当寺開基」と添記されている。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]伊万里市松島町

じよう山の麓にある。山号は万明山。寺伝によれば至徳年間(一三八四―八七)伊万里貞の創建とあり、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩(お吉観音とよばれる)

天正四年(一五七六)伊万里城落城により城主家利は杵島きしま郡に隠退、城には竜造寺左衛門督家繁が入った。家繁は、当時城の西麓黒尾くろお浦に住んでいた武雄塚崎つかざき城の後藤惟明の娘お吉を妻に迎えたが、天正一五年難産によりお吉は死亡。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]川辺町玄子

玄子げんこの北部、早藤はいくずに近い地にある。法性山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。九品寺同末寺由緒書(九品寺文書)によれば創建年次・開山ともに不詳だが、近世には小松原こまつばら(現和歌山県御坊市)九品くほん寺の末寺で、元禄五年(一六九二)より六八、九年前に恵春という僧が住み、それより一〇代になるという。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]旭志村弁利 岩本

岩本いわもとの西端にあり、東前方に合志こうし川が流れる。大宝山と号し、臨済宗。本尊聖観世音菩薩。縁起によると延久二年(一〇七〇)京都の大宝山円通寺の本尊を藤原則隆が当地の朝日あさひ山の麓に安置。翌年兵藤太郎経隆が当寺を造営し菊池郡岩本庄に移したとあり、文永年間(一二六四―七五)菊池武房が一五町を寄付したという。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]多久市西多久町板屋字楠峰

船山ふなやまの東南山麓にあり、藤川内ふじのかわち集落の入口に大きな石柱門がある。曹洞宗、大応山と号し、本尊は釈迦如来。

丹邱邑誌」に「大応山円通寺藤河内村ニ在リ、(中略)佐嘉郡朽井村大陽山玉林寺末寺禁制札懸ラル。初逢春山ト云、(中略)寺領高百石(中略)開山蔵室和尚文禄三年三月十日化(中略)円通寺開祖ハ玉林寺開山無着和尚嗣続玉翁融林和尚薩摩也。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]小浜市北塩屋

てんじよう山の南西山裾にある。山号潮音山、臨済宗南禅寺派、本尊釈迦如来。「若州管内社寺由緒記」は「享禄元年三月五日諸旦那寄合結草庵、文慶と申沙門開基いたし看坊仕候」と記す。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]北浦村次木

曹洞宗、連峰山と号し、本尊は十一面観音。寺伝によれば創建は応永年間(一三九四―一四二八)で、武田たけだ郷の領主武田七郎五郎信久が建立という。信久は寺領を与え、保護したので寺も隆盛であったが、天正一九年(一五九一)に武田氏は滅亡し、寺も焼失したと伝えられる。その後、太田(現常陸太田市)耕雲こううん寺の末寺となり、華翁聞宅を迎えて中興開山とした。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]いわき市遠野町上遠野 根小屋

上遠野氏が上遠野かとおの城に居城していた頃の下屋敷を中心とした根小屋ねごや集落にある。光明山功徳院と号し、真言宗智山派。本尊は聖観音。縁起によれば大同二年(八〇七)徳一の開基で、永享一二年(一四四〇)願行流佐久山方の宥徳の再建という。嘉吉年中(一四四一―四四)当地の領主上遠野大炊頭が帰依し、寺領を寄進したと伝える。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]倉敷市玉島柏島

通称白華はつか山にある。曹洞宗。山号は補陀落山。本尊聖観音は星浦観音ともよばれる。寺伝によれば行基の開基という。元禄年間(一六八八―一七〇四)良高が再興、円通庵と称し開山となる。のち三世蔵山良機・一〇世大忍国仙・一一世玄透即中・一九世覚巌心梁らが出、備中南部における曹洞宗の中心をなした。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]空知郡奈井江町字奈井江町

市街中心部にある。大融山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来・高祖承陽大師・太祖常斉大師。明治二九年(一八九六)山形県から来住した渡辺鶴仙が開教に従事し、国道沿いに同三四年説教所を開設したのに始まり、大正一三年(一九二四)寺号公称が認可された。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]師勝町片場 郷

牛王山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。天文元年(一五三二)の創建、開基は有応、開山は竜潭りゆうたん(現岩倉市)三世桂峯文昌。当初は曹洞宗であったが、慶長―元和(一五九六―一六二四)頃には天台宗であったという。

円通寺
えんつうじ

[現在地名]檜山郡厚沢部町字富栄

厚沢部川南岸にある真宗大谷派寺院。本尊阿弥陀如来。宝暦一一年(一七六一)江差順正じゆんしよう(現在の江差別院)留守居の浄頓が順正寺の掛所として土橋つちはし村の現在地に創建したという(寺院沿革誌)

円通寺
えんつうじ

[現在地名]八開村開治 北山

普陀山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。寛永一一年(一六三四)僧玄昌の開基という。本尊の観音は毎夜村の西北の地で読経念仏踊があるとのことから掘ってみたところ、蓮台に座した十一面観音像が現れたため、玄昌が奉じてこの寺に祀ったという伝承をもつ(尾張志)

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改訂新版 世界大百科事典 「円通寺」の意味・わかりやすい解説

円通寺 (えんつうじ)

京都市左京区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大悲山。後水尾上皇は修学院離宮を造営する以前に,洛北に幡枝(はたえだ)御茶屋と呼ばれた山荘を営んだ。当寺は,この山荘の御殿を,霊元天皇の乳母であった円光院文英尼が1678年(延宝6)禅寺に改めたものである。叡山借景で有名な枯山水の庭は,この山荘の庭を利用したもので,四十数個の石を組み,その石組に刈り込んだ低い丸ツツジを配し,庭全体をもとは白砂,現在はスギゴケで覆っている。庭の前方には生垣を植え込み,杉の木立を通じてはるかに比叡の連峰が望まれる。この雄大な景観は後水尾上皇など当時の宮廷貴族の趣向をよくしのばせている。
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世界の観光地名がわかる事典 「円通寺」の解説

えんつうじ【円通寺】

中国の雲南省の省都、昆明(こんめい)(クンミン)市内の円通街、昆明動物園に隣接する、同市で最も規模が大きく、最も古い仏教寺院。創建は唐の時代で、この地では南昭国(649~902年)の時代。当時は「補陀羅寺」と称した。この寺院の庭園は、中国の伝統的な寺院様式ではなく、中華様式の池を配した庭園で、境内には清朝の初期に建てられた円通勝景坊、天王殿、八角亭、大雄寶殿、回廊などがある。大殿には清の光緒年間(1875~1909年)につくられた3座の仏像が安置されている。◇円通寺は、基本的に大乗仏教の寺院だが、大乗仏教(北伝仏教)、上座部仏教(小乗仏教)、蔵伝仏教(ラマ教)の仏教三大宗派の殿堂が建っているのは、この雲南という地域の地理的環境による。

出典 講談社世界の観光地名がわかる事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「円通寺」の解説

円通寺

広島県庄原市にある臨済宗妙心寺派の寺院。甲山中腹に位置する。山号は慈高山、本尊は千手観音。本堂は国の重要文化財に指定。

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